日の丸背負って

東日本大震災から1ヶ月経たないうちにマスターズが始った。日本から4人のサムライが出場したが、そのうちの一人松山英樹は被災地仙台から出場したアマチュア選手である。日本はもう大津波で沈没してしまうのではないかと世界中が心配する中で、世界のゴルフ祭典「ザ・マスターズ」に、しかも被災地からアマチュア選手が出場したわけだから、私たち日本人にとってもほろ苦い喜びである。日本選手の帽子に「がんばれ日本!」のワッペンが付いているのは痛々しい感じすらしたが、地球の表と裏でこうも状況が違うものかと世界の大きさを感じさせられた。

 

ゴルフは典型的な個人競技でありながら、ワールドトーナメントではひとり一人が国旗を背負って出場している。英国にいたっては英国旗を背負わずスコットランド、イングランド、ウェールズ、北アイルランドの王国旗を背負ってる。国の名誉を背負って出場するものにとって、自己実現より責任負担の方が遥かに重いだろう。世界中から「がんばれ日本!」のエールを送られてプレッシャーを感じない方がおかしいが、今回の「がんばれ」の意味合いは普段と大分違う。不幸や悲しみに負けるなという意味で多くの同情が含まれているから、Vサインで応えるわけにはいかない。軽く帽子に手を添えて会釈するくらいしかできないが、不幸や悲しみを背負っているものの頑張りには胸に熱いものを感じる。日本から出場した若者に多くの人が抱いた共通感情だろう。

 

まだ10代という若者二人を、マスターズ決勝ラウンドに送り込んだ日本のゴルフ界は前途洋々に思えるかもしれないが、実際は暗雲が垂れ込めている。バブル崩壊から20年、未曾有の破綻劇を繰り返し、10兆円近い損失と200万人近いゴルフ難民を生んだとされるが、3月11日の震災で更なる地盤沈下をしたと思われるからである。しかしゴルフには強い生命力があって、ゴルフ場は何度倒産しても経営者を取り替えて復活してくる。今度こそ本物の経営をして年金生活者や失業者、お金の無い若者やジュニアがゴルフの夢を追いかけられる舞台を提供して欲しい。東京都の「若洲ゴルフリンクス」など世界に恥ずべき公営ゴルフ場といえるが、若洲ゴルフリンクスが国際標準料金になったときが日本のゴルフが民主化したときといえる。石原知事はゴルフの文化性や教育性を良く理解されている人だから、東京から日本を変える政策によって、日本のゴルフに夜明けがやってくるかもしれない。日の丸背負って世界に飛び立っていく若者達が機内から若洲ゴルフリンクスに手を振るときが早く来て欲しい。

 

日本の実力

今週から始った世界マッチプレー選手権に日本のトップスリーが挑戦して、三人とも初日一回戦で敗退してしまった。トップスリーとは池田勇太、石川遼、藤田寛之を指す。先週リビエラで開催された「ノーザントラスト」でも池田勇太一人がかろうじて予選通過したものの、石川遼、今田竜二の二人は予選落ちしている。この試合は日本人オーナーのリビエラC.C.で開催されたが、日本人選手三人が予選二日間を同じ組で回るという世にも珍しい光景が観られた。普通なら国際試合で同じ国の選手だけで競技することはありえないが、なぜこういうことになったのか理解に苦しむ。大相撲で八百長試合がとり沙汰されているときだけに、日本選手が勝っても負けても後味の悪い思いが残るはずだ。

 

日本のゴルフ界はもう20年以上も鎖国体制をとっているから、外国と大きなカルチャーギャップが生まれてしまった。何も知らずに日本に生まれ育った若者たちは、祖国の誇りを日の丸に託して武者震いしても、想いと現実が余りにも違いすぎて悲劇を繰り返すことになる。先週封切になった『太平洋の奇跡』を観ても、若き日本兵の祖国を想う愛国心や忠誠心と、権力の中枢にある指導者たちとの間にあるギャップは、悲哀を超えて歴史の悲劇としか表現のしようがない。指導者の無知と無責任を全て若者の肩に背負わせ、大和魂だけで突撃させても玉砕の悲劇を繰り返すだけである。日本兵が如何に勇猛果敢であったかは歴史の事実が証明している。権力の中枢にグローバルな視野があれば、日本の若者はもっともっと活躍するに違いない。

 

それに引き換え韓国人プロは国際舞台で目覚しい活躍をしているが、彼らの祖国は国家存亡の危機にあって、国境に異変が起これば祖国に舞い戻り、クラブを捨てて銃を取るか、家族を連れて国外逃亡を図らなければならない。今を失えば明日はないかもしれないという切実な思いが、試合に取り組む姿勢やプレーの姿に表れている。逆境に育った彼らの強さの秘密は何か是非とも知りたいところだが、聞くところによれば彼らの大多数はクリスチャンだそうだ。祖国愛や自己実現という偏狭な価値感ではなく、人類愛や平和実現という遠大な価値感に支配されているとすれば、グローバル化する現代を悠然と生きる姿勢は当然とも思える。

 

日本の若きサムライ達に伝えたい。軽薄な商業娯楽主義に毒されたり、偏狭な鎖国体制の殻に閉じこもることなく、勇猛果敢に世界に羽ばたいて欲しい。
ただし、大和魂や武士道精神で武装することを忘れてはならない。そうすれば、やがて日本の若サムライ達が世界各地で勝利の勝鬨を挙げることは目に見える。

 

マネジメントゴルフの凄さ

1月30日米国サンディエゴ郊外のトーリーパインCCで行われた「ファーマーズ・インシュランス・トーナメント」の決勝最終ホールで物凄い光景がみられた。
最終組の前を回っていたババ・ワトソンがバンカーからピン上5メートルの難しいところに寄せ、その難しい下りパットを決めて16アンダーとし、優勝を殆んど手中に収めたかに見えた。最終組のフィル・ミケルソンは14アンダーで最終ロングホールの第二打を池の手前にレイアップして、終始ババ・ワトソンの様子を見ていたが、さすがに第三打を直接カップインしてプレーオフに持ち込む意欲を断たれたかにも見えた。

 

ところがミケルソンは打順が来るやグリーンまで歩いて来てどこにボールを落とせばカップインするか丹念に調べているではないか。じっくりとグリーン面を観察し、落とし所を見定めたうえでキャディーを呼んでピンを持って立たせ、ショットし終わったらすぐピンを抜くように命じているようである。72ヤードのアプローチショットを絶対カップインさせるという気迫に満ちた雰囲気がみなぎり、ミケルソンの真剣な様子に大観衆は水を打ったように静まり返って固唾を呑んだ。二打差をつけて待ち受けるババ・ワトソンも、きっと心臓が止まる思いがしたのではないか。

 

いま世界ツアーではピンポイントでターゲットを狙ってくるほど精緻なゴルフをしている。現代のゴルフは徹底したマネジメントサイエンスに基づいてヤード刻みに距離を測定し、コースやグリーンに関する情報を収集し、スピンコントロールされた変幻自在の弾道を放って戦略的に挑戦する。だからミケルソンの最終ホールのプレーは単なるギャラリーを沸かせるスタンドプレーではない。本人はもちろんババ・ワトソンもギャラリーもテレビ視聴者も、全員がマネジメントされたショットの成功確率を知っているから見守ったのである。

 

日本が情報鎖国している間に世界のゴルフはどんどん進化してしまった。あんなに保守的だった英国や南アフリカのゴルフもどんどん米国の科学技術ゴルフを導入しているし、韓国のゴルファーも日本の上空を通過して直接米国に渡って現代ゴルフを学んでいる。先週の「ファーマーズ・インシュランス」一日目、二日目とも韓国人選手が首位の座を窺っていたことも、日本人選手が二人とも予選落ちしたことも、どうやら偶然とはいえない気がする。日本のゴルフに明治維新が起きたと思って改めて世界に目を向けてショットすれば、きっと文明開化の音がするに違いない。

 

ゴルフの開国

いま世の中がにわかにTPPと騒がしくなってきた。グローバル化が進む中、貿易の自由化を進めて物資やサービスが自由に取引できるようにしようということで、私たち庶民からすれば「えっ!いまさら」という気がする。総理大臣も「平成23年を開国元年にしよう」といって拳を振りかざしているが、昨年一年間にわたって大河ドラマで幕末明治維新の姿を観てきた私たちは、「えっ!いまさら開国?」という素朴な疑問が湧いてくる。

 

そういう私も新年早々「2011年をゴルフ開国元年にしよう」とネット上で力説したものの、ほとんどの人が「えっ!いまさら」と思ったかもしれないという不安が起きてきた。高度情報社会に住んでいる私たちは、何でも知っていると信じていながら実は何も知らないのではないかという不安に変わってくる。
尖閣諸島事件で勇気ある情報公開がなければ、私たちは今も真相を知らないまま「中国と国交断絶しろ!」と拳を振り上げていたかもしれない。

 

私たちゴルフ好きは今も「小遣や年金で毎日ゴルフができたらなぁ」と夢を見続けている。欧米豪州カナダでは1000円前後でゴルフができるのに、何で日本では10倍もするンだろう。素朴な疑問を持つ人はまだいい方で、ほとんどの人は疑問すら持たない。つまり情報鎖国社会に住む私たちは世界の真相を知らされていないから、日本の現状を世界の姿と思い込んでいる。極東の島国に住む私たちは案外、世界の真相を知らされたくないのではないか。

 

ではゴルフ開国を叫ぶとどうなるだろう。TPPと同じように猛烈に反対する人たちが出てくるだろうか。「自由化反対!日本のゴルフ場を守れ」「合理化反対!ゴルフ場の雇用を守れ」「値下げ反対!プレーの安全を守れ」実にもっともらしい口実の反対運動が次から次へと沸き起こりそうな気がしてきた。小遣いや年金で毎日ゴルフができたらというささやかな夢は諸外国では当たり前でも、まだ日本では危険思想なのだろうか。

 

吉田松陰も坂本竜馬も外国に行ってみたいというささやかな夢を抱いて命を落とした。あれから140年も経ったから、もうそんなことは起きないだろうと思うが、歴史は繰り返すともいうから気をつけないと何が起きるか分からない。さすがに海外渡航は自由になったから、開国を叫んで命を落とすくらいなら、格安便を使って『海外ゴルフ三昧旅行』にでも出掛ける方が安全で安上がりかもしれない。

 

天の采配

2010年度トーナメントシリーズが終了した。終ってみればそういうことかと思うことも、結末を見るまでは実にはらはらする。だから闘うものも観戦するものもエキサイトするし興行としても成り立つわけだ。最初から結果が分かっていれば、誰もお金や時間を使って観戦などしない。かくいう私だって今年度の賞金王は誰になるのか、水曜日からそわそわしていたことは否定できない。
そしてほとんどの人が石川遼か池田勇太のどちらかが優勝して今年度賞金王に輝く構図を画いていたのではないか。石川遼の連覇に期待しながらも、進境著しい池田勇太の優勝もありうる。勇太自身、相当意識して優勝宣言に近い発言をしていたから、なおさら多くの人が二人の優勝争いを予想していたはずだ。

 

天(神)の計画は大方の見方と異なり、最終戦優勝争いはアラフォー藤田寛之と谷口徹の一騎打ち。賞金王は韓国選手キム・キョンテに決定した。戦前の予想と異なり石川遼と池田勇太の名はなかった。最終戦は20歳前後の若手ホープ同士の一騎打ちに期待が寄せられたが、40過ぎのオヤジ同士の一騎打ちとなりました。藤田の優勝スピーチが印象的だ。「同世代に自信と勇気を与えられたら嬉しい」とは謙虚にして切実な言葉である。40代というのは社会的責任が重くのしかかる割に社会から軽くみられ、上からも下からもプレッシャーをかけられる辛い世代なのだ。私も過去の経験上、藤田の言葉が身にしみて分かる。

 

世の中はいつも矛盾に満ちていて、世界的景気低迷の中で20歳前後は就職難と失業に苦しんでいるし、40歳前後はバブル後遺症の責任だけを一身に背負わされている。石川遼や池田勇太の同級生たちは浪人となって最低賃金確保のため、足を棒にして毎日就職活動をしているだろう。藤田寛之や谷口徹の同級生たちは組織の中間管理者として、また一家の柱として身も心もすり減らして日夜働いているに違いない。これはトーナメントプロと一般社会人のどちらが楽な仕事かという比較の問題ではない。人生の選択の問題だから全て本人の取組姿勢に掛かっていて、結果責任は自分で負わなければならない点は同じだ。

 

韓国プロの成長は著しく、男女とも日本の賞金王を射とめた。彼らの日常姿勢からこの結果は予想できたが、現実を前に改めて考えさせられる。南北国境間にある一触即発の緊張感に包まれた日常生活は、いつ戦陣戦乱の渦に巻き込まれるか分からない。トーナメントに出場している今は二度と訪れないかもしれないし、来年はないかもしれない。韓国プロによる賞金王男女制覇の快挙に神の意思や天の采配を感じて厳粛な気持ちになったのは私一人ではないはずだ。心底から「おめでとう。今を大切に!」と祝福したい。

 

池田勇太のスイング

池田勇太が強くなってきた。強くなったばかりかアンちゃん風だった勇太に王者の風格が出てきた。人が地位をつくるのか、地位が人をつくるのか分からないがとにかく成長した。テレビに映る姿を見て日に日に惹かれていく。あの独特なスイングも魅力的に見えてくるだろう。

 

池田勇太のスイングは何処で身につけたか知らないが、米国ではジム・ヒューリック、日本では青木功と同系統である。かつて河野高明や草壁政治が採用していた通称「逆八スイング」といわれるスイング系統である。ビギナーやアベレージゴルファーにはインサイドに引いてアウトサイドに下ろしてくる「八の字スイング」が多いが、これは後ろからスイングプレーンを見ると八の字を描いているように見えるため、このように名付けられた経緯がある。これとは反対に「逆八スイング」はストレートに引いてインサイドに下ろしてくるから八の字が反対に描かれて逆八という訳だ。

 

30年ほど前、青木功が世界的プレーヤーになりだした頃、米国コロンビアカントリークラブのコーチで全米第一人者といわれたビル・ストラスバーグが「青木功こそ理想のスイング」と絶賛した。当時NGFアメリカセミナーの主任講師だったビルを日本にも招聘して東京・京都・大阪でセミナーを開いたが、200人以上受講して誰もこのスイングをマスターできなかった。ビルの言葉を借りれば「クラブを真直ぐ上げて、右脇を絞めるように引き下ろし、また上げる」と簡単にいうのだが、誰も巧くできなかった。セミナーに集まったトッププレーヤーたちはビルの講義を聴きスイングを見て「玄人芸」と絶賛したのだが。

 

ということは青木功も池田勇太も黒光りした玄人芸なのである。人知れず数限りない球を打ち続け、百戦練磨して磨き上げた達人名人のワザである。素人が簡単に盗んだり真似のできる芸ではない。恐らく本人も自分の技を伝えられるとは思っていないはずだ。「名選手必ずしも名コーチならず」の例えどおり、絶対といってよいほど名人芸は伝授できるものではない。子供は器用だから結構上手にスイングを真似するだろうが、経験や体験は最終的に真似したりバーチャルトレーニングによって身に付くものではない。

 

基本とは名人や達人に共通する原則を導き出し、その中から誰でも真似のできる普遍技術を体系的に整理したものである。だから基本はつまらなく退屈である。こんなこと猿でも真似できると思うことばかりだ。その基本をタイガー・ウッズも石川遼も毎日コツコツ練習しているという。これはまさに凄業だ。

 

アマチュアゴルフ

2010年米国PGA公式戦が終了した。40歳のジム・ヒューリックがフェデックス・プレーオフシリーズ最終戦に優勝し135万ドルを獲得すると同時に年間総合優勝も決めて賞金1000万ドルも獲得した。ビジェイシン、タイガー・ウッズに次いで史上三代目だそうだがイヤハヤ驚きました。1年間でアメリカ大統領報酬の30年分を稼いだそうで、荒稼ぎ振りはハゲタカファンド顔負け。アメリカツアーも本来厳しい世界で、稼げないものはガソリンスタンドやコンビニエンスストアでアルバイトをしながら旅費を稼ぎ、安モーテルやキャンピングカーに泊まってツアプレーヤー(旅芸人)を続けている。だからギャンブラー(博徒)ともいう。プロトーナメントは生活を賭けた大バクチだから「勝者金満、敗者難民」「一将功成り万骨枯る」を地で行く優勝劣敗の世界だ。命懸けの真剣勝負だから観るものにとっては面白いが、決してアマチュアが見習ってはいけないゴルファーの姿でもある。昨年の覇者タイガー・ウッズは膝を壊し、家庭を壊し、ファンを裏切り、精神を病んだ。ゴルフは全てのスポーツの中でも唯一、人間の善意に全てを託している。善意とは礼節、誠実、正直、謙虚、寛容など人間が本来持っていないものを周囲に示す心だ。だから善意は教育され、忠告され、訓練されないと身に付かない。身についていないものを「付焼刃」というが、ちょっとしたことで簡単にこぼれ落ちてしまう存在でもある。

 

プロツアーを見ていて大変気がかりなことは、確かにプレーヤーは育っているがゴルファーが育っていないことで、カネ稼ぎに始ってカネ稼ぎに終るプロツアーのシステムは「勝者金満、敗者難民」の金融資本主義と同じシステムだ。だから、このままプロツアーがリーマンブラザースと同じようにバブル崩壊で終らなければよいがと思う。もうひとつ心配なことはアマチュアゴルファーがプロゴルファーを見習っていることだ。10代,20代の若者に闘争心を植え付けることは簡単だが、善意を育てることは時間が掛かる。アマチュアゴルファーが若いスタープレーヤーに憧れるのも結構だが、彼らは商業資本主義の広告塔であって使い捨て商品であることを忘れてはならない。私たちにとってゴルフは人生を豊かにする生涯スポーツそのものだし、青少年にとっては倫理道徳教育プログラムであることも決して忘れてはならない。昔から「ゴルフから得たものはゴルフに返せ」と言われてきた。でもゴルフから得るものは余りにも多過ぎて一生かかっても返しきれない。アマチュアゴルフには私たちの魂を健康にする「ゴルフマインド」という成分が含まれていて、多少の経済負担が伴っても余りある効能がある。アマチュアは間違っても精神を病んだり、魂を害するようなゴルフを見習ってはならない。

 

基本の大切さ

「何事も基本が大切」という言葉は頻繁に聞く割に、実際は結構おろそかにされているようだ。あのタイガー・ウッズですら、今は基本に戻ってスイング形成やパッティングドリルをやり直しているというし、石川遼も試合のあと「もう一度基本を徹底的にやります」とよく言っている。世界一や日本一を誇るトッププレーヤーといえども、基本のうえに高等技術が形成されていることを証明しているようだが、その土台となっている基本とは何かとなると、多くの人が沈黙してしまう。実は、ゴルフの基本は1970年代以降に確立したもので、それ以前にゴルフの基本はなかった。「えっ!ウソ」という人は比較的若い世代で、「ほんとだよ」という人は間違いなく中高年世代のはず。

 

1960年代に米国ゴルフ界は学校体育授業にゴルフを導入するためNGFの開発プロジェクトチームの手によって教育プログラムが開発されていた。学校教育に導入するには、どんな生徒にも当てはまる基本を確立しなければならない。
NGFコンサルタントといわれる大学コーチやPGAプロによって編成されたプロジェクトチームは、数年の歳月をかけてNGF教育プログラムを完成させた。いわば講道館の嘉納治五郎が柔道の基本を確立した話に似ている。米国の若手中堅プロは殆んど基本教育プログラムによって育ってきた。米国で育った選手のゴルフは生体物理原則に則ったワンスイング・スクウェアシステムから飛球法則に従った9種弾道を自在に打ち分けるスタイルなのですぐ分かる。

 

9月第三週、札幌で開催されたANAオープンの最終ラウンド池田勇太と韓国K.J.チョイの一騎打はとてもおもしろかった。池田勇太は日本の強者達に育てられた職人芸。K.J.チョイは米国で育った基本ゴルフ。「何としても勝ちたい」という思いはほぼ互角のようだがスタイルの違う両者が一歩も譲らないまま、とうとう18番最終パットまで決着がつかないという手に汗握る真剣勝負となった。K.J.チョイは厳しい米国ツアーを戦ってきた若手国際選手だし、池田勇太は日本が期待する若手ホープだ。本人もギャラリーも池田勇太に優勝させたい一心が勝負を決した感があるが、米国ツアーで鍛えられたマシーンのように正確なショットと冷静なマネジメントゴルフに、池田勇太がじりじりと追い詰められていることは誰の目にも分かった。K.J.チョイが18番、計測したようなセカンドショットをバーディーチャンスにつけて、池田勇太は喉元に刃物を突きつけられたような恐怖感を味わったはずだ。K.J.チョイがバーディパットを外したために、池田勇太は冷静さをとり戻して優勝できたが、優勝パットを決めた瞬間に勇太の目から溢れ出した涙が全てを物語っていた。プレーオフになったら限界まで追い詰められた池田勇太に勝ち目はなかったはずで、イヤというほど基本の恐ろしさを知った彼は、この優勝できっと大きく成長するに違いない。

 

ゴルフの怒り

ゴルフゲームは基本的にマッチプレーとストロークプレーしかない。マッチプレーは人と人の勝負で、ストロークプレーは人とコースの勝負だ。最近日本でマッチプレーをする人を殆んど見なくなった。イギリスでは今でもストロークプレーをする人は殆んどいないらしい。スポーツは全て誰かを相手に勝負するものだから、誰を相手に闘っているか忘れると勝負にならない。
実際にゴルフをしている人で、どれだけの人が闘う相手が誰かを認識しているかとなると甚だ疑問だ。私も含めてほとんどの人が自分と闘ってしまっているのではないか。もしそうでなければ、あんなに腹が立ったり情けなくなるはずがない。みんな自分に腹が立ち情けなくなるのだ。だってコースが相手だと承知の上でプレーしているし、コースは自分に何をした訳ではないことも良く分かっているから、結局は自業自得と諦めなくてはならない。それがしゃくの種なのだ。どんなに人格者といわれる人でも、目尻がつり上がったり唇をかみ締めたりするから、相当怒っているなと分っておかしい。「笑っちゃ悪いよ」と思うともっとおかしくなる。今でも20年も30年も前の出来事を思い出して一人で笑うことが時々ある。笑われた相手は今でも思い出して腹を立てているかと思うと、またおかしくなる。自分もきっと誰かに笑われているに違いないと思えば「おあいこ」ということで許されるだろう。

 

テレビで観ているとタイガー・ウッズと石川遼の顔が引きつっている。心中穏やかでないことがすぐ分かるほどだから、二人ともコースと無心に闘う心境ではないのだろう。タイガー・ウッズが心中穏やかじゃないことは良く分かるが、石川遼は何が原因だろう。付きまとうマスコミやファンか、コマーシャルの煩わしい仕事か。メンタルスポーツの代表のように言われるゴルフの世界で雑念は絶対禁物だが、二人には雑念が多すぎるのではないか。去年の二人の顔は輝いていたが、今年はいささかくすぶっている。最もタイガーは父親を失ってから心の支えを失ったせいか、王者の風格がなくなり些細なことに腹を立ててイライラしていることが良くあった。ゴルフが王者になれても人間はなかなか王者になれないことを証明しているようだ。

 

王者の風格というと野球のイチローと松井選手、相撲の白鳳、水泳の北島選手、ゴルフでは宮里藍に見られるようになった。風格ってナンだといわれると困るが、闘う相手を良く弁えて決して自分や他人に腹を立てず、少なくとも他人に悟られることなく、自分で解決できる人に備わるものなのだろう。聖書はいう「怒りを治めるものは勇士に勝る」と。でもエンジョイゴルファーにとっては「怒るも愛嬌のうち」と思っておおらかにゴルフを楽しみたいものだ。

 

ゴルファーとプレーヤー

私は永年ゴルフの世界にいながら「ゴルファー」と「プレーヤー」を意識的に区別してこなかったし、言葉の意味についても明確に定義してこなかった。
タイガー・ウッズや朝青龍の問題が起きて「はてな?」と真剣に考え出したのが正直なところだ。かつて「ゴルフ人口」を定義するのに「練習場ゴルファー」と「コースプレーヤー」と無意識に使い分けていた時期があるが、厳密に定義したわけではない。練習場にはコースに行った経験がない人も数多くいるだろうという意味で漠然と「練習場ゴルファー」といっていた。真面目に考えると「ゴルファー」と「プレーヤー」は明確に区別しなければいけない気がする。

 

普段ゴルフコースにはプレーする人しかいないから、全員プレーヤーといっても良さそうだし、全員ゴルファーといっても良さそうな気がするが、トーナメント会場となったコースでは、選手だけがプレーヤーでギャラリーはゴルファーも非ゴルファーもいる。最近、石川遼のまわりにはケータイカメラを持った「追っかけおばさん」がいっぱいいるが、どう見てもゴルファーには見えないもののコースに行った経験はある人たちだ。コースだけではなくテレビや雑誌の前にもゴルフの経験はないが、私以上にゴルフ界に詳しい人たちがいる。
インターネットの世界にはクラブもボールも触ったことがない「ゴルフオタク」が相当いるらしいが、実態については私もまだ良くわからない。このような人たちは「プレーヤー」ではないが「ゴルファー」と呼ぶべきだろうか。

 

国技館に行けば「相撲取り」と「相撲ファン」はすぐ区別できる。ちょんまげ結ってふんどしを締めてるいる人が「相撲取り」で、その他の人は全員「相撲ファン」だ。最近は「女性相撲ファン」がいっぱいいるが、ほとんどのひとが相撲経験はないはずで、横綱審議会の委員を務めた内館牧子さんだって相撲を取った経験はないと思う。でも内館さんの朝青龍に対する見解は立派で「アスリートとして尊敬できても横綱として認め難い」といって伝統を重視された。さすがに大学院で「大相撲の宗教学的考察」という論文を書かれただけのことはある。米国ゴルフ協会やマスターズ委員会がタイガー・ウッズに対して明確な見解を表明できなかったことに較べて実に立派だったと言いたい。
歴史と伝統のある日本の大相撲と歴史の浅い米国のゴルフとの差が歴然とした気がするが、本来なら英国に発祥するゴルフは大相撲以上の歴史と伝統をもっているし、宗教学的に考察したら「プレーヤーとしては尊敬できてもゴルファーとして認め難かった」はずである。マスターズ創設者のボビー・ジョーンズはプレーヤーである以前に、キリスト教騎士道精神を持った立派なアマチュアゴルファーとして聖人の冠を付された人だからである。