全英オープンの教訓

実力者フィル・ミケルソンの優勝で終わった「2013全英オープン」は、今年もまた数々の教訓を残してくれた。日本から8人出場して決勝進出は二人。その一人がプロ転向3ヶ月の大物ルーキー松山英樹で、タイガー・ウッズと同じ6位入賞である。予選二日間は米英を代表するフィル・ミケルソン(米)、ルーク・ドナルド(英)と世界のトッププレーヤーとプレーしながら、全く臆することなく堂々と予選通過したのだから見事というほかない。ちなみにドナルドは予選落ちした。

 

松山英樹は幸運だ。プロデビューの舞台は最古の伝統クラブミュアフィールド、共演の役者は英国を代表するルーク・ドナルドと、米国を代表するフィル・ミケルソン。初日二日目と同じ組でプレーしたのだから、それだけでも世界の注目を浴びるのに、そのうえ世界一のタイガー・ウッズと肩を並べる6位入賞だから、日本のゴルフ史に名を残す快挙といわなければならない。だからといってお祭り騒ぎをするのはまだ早い。この程度でお祭り騒ぎをするようでは、日本はいつまでたってもゴルフ三流国に終わるからからだ。優勝したミケルソンだって20年挑戦し続けてやっと勝利を掴み、キャディや家族と肩を抱き合って泣いた。

 

日本では、いままでどれだけ多くの有望な若者を「ほめ殺し」してきたか分からない。日本を世界地図で見れば一目瞭然、極東の小さな島国なのだ。日本一だからといって世界に出れば小さな存在に過ぎない。日本一だ!世界だ!金メダルだ!と騒がれて、万歳三唱で送り出された若者が落武者のようにひっそりと帰国する姿をどれほど見たことか。本来なら敗れて戻ってきた者こそ暖かく迎え入れ、激励してやるのが親心であり大人の姿のはずだが。いつまでたっても「一将功なり万骨枯る」では多くの有能な若者が次々と枯れていく。

 

今年の全英オープンには8人の日本人プロが挑戦しているが、多くの人がその事実すら知らないかもしれない。ひょっとしたら松山英樹一人が出場したと思っているかもしれない。眠い目をこすってテレビを見ていた私ですら、とうとう予選落ちした6人の姿が放映されるのを観ることができなかった。どんな思いで全英オープンに臨み、どんな思いで帰国したか考えると気になって仕方がない。彼らがプロである以上、安易な慰めは無用だ。臥薪嘗胆。その無念を明日の活力にしてこそプロなのだから。松山英樹は6位入賞は忘れてもいいから、R&A競技委員からスロープレーのペナルティーを喰らった悔しさは生涯忘れてはならない。日本から来た若者にガツンと拳骨を食らわせたR&Aも強かなら、「糞ったれ!」と言わんばかりの顔つきで最終日に巻き返した松山も強かだ。誉め言葉なんか忘れてその悔しさだけが心に残っていれば、必ず将来は世界を背負うプロに成長するだろう。

 

大物ルーキー

大物ルーキーと言われる松山英樹が、プロ転向して早くも大物振りを発揮しているが、同じ歳の石川遼が米国ツアーで悪戦苦闘している姿と対照的だ。しかし石川遼もデビューした時には大物ぶりを発揮して世間をアッと言わせたものだが、その石川遼が世界に出て苦しむさまに、世界の壁の厚さを知って私たちの方が驚いている。ならば世界の壁はそんなに厚く、日本のゴルフ技術はそんなにレベルが低いのかと思いがちだが、私は断じてそんなことはないと信じる。
ゴルフは登山、スキー、マラソンなどと同じように気象条件や自然環境に対応しなければならないスポーツだから、環境が変われば技術だけでは勝てない。
そのうえゴルフは自然環境だけでなく、社会環境にも対応しなければならない厳しい側面を持っている。石川遼は日本PGAの閉鎖的封建社会の殻を破って頭角を現し、米国に渡って新たな社会環境に挑戦している。自由平等を国家理念とするアメリカ合衆国にあっても、白人プロテスタントが支配する米国PGAという社会環境は宗教色の強い差別社会でもある。かつてリー・トレビーノ、チチ・ロドリゲス、ロベルト・デビセンゾが、いまはビジェイ・シン、タイガー・ウッズ、アンヘル・カブレラらが目に見えない宗教や人種の壁と闘っていて、石川遼もそのひとりで、置かれた立場を思うとやはり「頑張れ!」と叫びたくなる。

 

慣れない自然環境に飛び込んだとき人の体は異常な反応を示すが、慣れない社会環境に飛び込んだときは、むしろ体より心の方が異常な反応を示してしまう。そのうえ人の体と心は微妙に連動しているので、異常反応が連鎖を起こして自分自身でもコントロール不能の状態に陥ってしまう。かつて多くの若者をアメリカゴルフ留学に送り出したが、SOSの連絡を受けて何度も救出に行った経験がある。「朝になると足が動かなくなって一歩も歩けない」とか「英語が分からないから買い物にも行けない」といって閉じこもっている。もっと進むと「もう日本には帰れないから自殺したい」と訴える。このような社会環境に対する反応は、その社会に順応するか無視しなければ耐えられない。有色人種が白人社会で生きるのも、無信仰者が異教徒社会で生きるのも、社会環境の違いは私たちが生きるうえで実に大きな壁だ。地方人が東京に来ても、東京人が地方に行っても、それぞれの社会環境の違いは大きな壁になる。その壁を乗り越えた人だけが異なる社会環境で生きていくことができるし活躍することもできる。ガラパゴス島といわれる日本もどんどんグローバル化して、いろいろな人種、国籍、宗教の異なる人々が住みはじめた。観察すると外国からガラパゴス島に来た人には住み心地が良い環境のようだが、ガラパゴス島から外国に行くとどうにも住み心地が悪いようだ。ガラパゴス島の住人は異質な社会環境に住めなくなってしまったようだが、世界で活躍しようとするなら、ガラパゴス島を飛び出してどんな社会環境にも順応できる体質を作らなくては駄目だ。実際に野球やサッカー、技術者や芸術家は、どんどんガラパゴス島を飛び出して活躍しているではないか。ただし、ガラパゴス島固有の甘ったれ精神は置いていかないと命取りになることだけは肝に銘じておかなければならない。代わりに世界に通用する武士道精神をまとって行くことを是非お勧めしたい。

 

ゴルフグローバル時代

メジャートーナメントの出場選手の国籍を見ると、いやがうえにもゴルフの世界にグローバル時代がやってきたことが分かる。英国に発祥したゴルフが欧米カナダ豪州に伝わり、日本韓国アジア諸国に普及していった姿が手に取るように分かる。全米女子オープンでは韓国を中心にアジア勢が大活躍し、全英オープンでは英国勢と米国勢が激突する構図の中で南アフリカとオーストラリアが油揚げをさらう結果となった。劣勢だった英国勢は最近勢いを盛り返して、世界ランキング上位三位まで占めている。英国伝統精神ゴルフが米国科学技術ゴルフを圧倒しているように見えるが、どうやら英国も米国科学技術ゴルフを積極的に導入した結果のようだ。そうなると伝統精神に科学技術がハイブリッドされてより進化したことになる。どんなに高度な技術を持っていても、精神基盤が脆弱だと勝負の世界では通用しないことを、米国勢トップのタイガー・ウッズ自身が証明してみせた。そのタイガー・ウッズは今回優勝争いに絡んできたが、プレーの態度を見ている限り精神的な成長と余裕が伺える。間もなく円熟した実力者としてグローバル時代のリーダーに返り咲くに違いない。

 

ご存知のようにタイガー・ウッズはアジア・アフリカの混血というグローバル時代の象徴的存在だが、WASPが支配する欧米ゴルフ界の中で実に多くの偏見や差別があって、世界の頂点に上り詰めるまで想像を絶する数々の苦難があったと思われる。偏見と差別、挫折と中傷を克服した人間タイガー・ウッズが米国の帝王からグローバル時代の象徴的存在として、世界中のゴルフファンに愛されるならば、ゴルフそのものがグローバル化したことを意味するだろう。ゴルフがどんなにグローバル化しても、英国に発祥し米国に渡って発展した歴史的事実や、英国伝統精神に米国科学技術が融合して完成された高度な文化性は、永遠に世界中の人々に受け継がれていくに違いない。ゴルフの悠久文化性が理解されたとき、本当の意味でゴルフがオリンピックの正式種目になるときと思うが、へたするとオリンピックそのものの悠久文化性が先に問われるかもしれない。金だ銀だ、何個だ何十個だと騒いでいるうちに、世界の安全や秩序が先に崩壊しオリンピックどころではなくなる恐れがある。金メダルの国別獲得数が国家予算の投入金額に比例するようでは、軍事予算と国力や戦力の関係と同じで我ら庶民がお祭り騒ぎをする問題ではない。

 

プロトーナメントの世界がグローバル化しているのは素晴らしいことだが、賞金予算がどんどん肥大化しているのが気掛かりだ。金メダルの奪い合いと賞金の奪い合いのどこが違うと問われたら返す言葉がない。ゴルフの悠久文化性を語っているうちに、現実はゴルフの賭博性が支配していたとすればパロディーどころか、堕落と崩壊の道を歩んだ古代オリンピックと同じ悲劇を演ずることになるかもしれないからだ。莫大な金を手にして堕落と崩壊の道を歩んだものは歴史上ゴマンといるし、個人に限らず国民国家の単位でも枚挙に暇がない。ひょっとすると誰もがタイガー・ウッズの歩んだ道を笑うどころか見習わなければならない時が来るかもしれない。

 

タイガー・ウッズの復活

もう駄目かと思っていたタイガー・ウッズが復活優勝した。2010年、相撲界の帝王朝青龍とゴルフ界の帝王タイガー・ウッズが、ともに帝王の品格を問われて失脚したことはまだ記憶に新しい。朝青龍は日本の伝統文化を破ったモンゴル人として、タイガー・ウッズは白人プロテスタント文化を破ったアジアアフリカ人として、ともに歴史を変えた風雲児でもあった。歴史を変えられた側から相当の反感があったことも事実だ。記録や伝統は守るものでもあり破るものでもあるとすれば、二人の偉業は歴史的な出来事として評価されても良いはずだが、二人とも品格を問われて失脚したのは実にまずかった。

 

そもそも歴史を変えるような大人物に品格を備えた人など聞いたことがない。ジンギスカン・ナポレオン・平清盛・織田信長みんな品格を問われている。なまじ品格など備わっていると、歴史を変える風雲児にはなれないのかもしれない。しかし勘違いしてはいけない。風雲児になれないからといって必ずしも品格を備えている訳ではない。私たちは風雲児になる気もなければ、なれるはずもないことも解っているから、せめて風雲児に負けない品格でも備えようではないか。品格あるゴルファーなら心がけ次第で誰でもなれる。

 

タイガー・ウッズが復活してもしなくてもゴルフの歴史は変わっていくだろう。英国に発祥し、米国はじめWASPホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの文化として発達したゴルフが、21世紀にはAAAアジア・アラブ・アフリカに渡って大発展することは目に見えている。ゴルフの世界にもグローバル化の波が押し寄せてきたといえるだろう。21世紀ワールドゴルファーの共通語が世界統一のエチケットルールだとすれば、品格を備えるのは難しいことではない。エチケットルールは「知っているか知らないか。実行しているかしてないか」の違いだけで、人種国籍どころかシニアゴルファーでもジュニアゴルファーの前に土下座しなければならない世界でもあるのだ。

 

タイガー・ウッズの復活は品格の復活であって欲しい。世界の青少年の、とりわけアジアアフリカの青少年の夢を壊した失望の存在に終らず、挫折から復活した希望の存在になるならば、ゴルフの生きた教材として高く評価されるに違いない。そもそもキリスト教は贖罪と復活の奇蹟を信じる信仰として存在するのだから、タイガー・ウッズが前非を贖罪し品格ともども復活するならば、青少年どころか世界の大人が揃って彼を尊敬し、ゴルフの持つ素晴らしいパフォーマンスを信頼することになるのは間違いない。

 

では基本とは何か 2

松山英樹が太平洋マスターズに優勝し、石川遼が優勝の花道を出迎えた。暫らく明るいニュースに乏しかった日本の男子プロゴルフ界に、若者が爽やかな話題を提供してくれたが、日本のゴルフ界は稀に見るこの二人の逸材を大切に育てなければならない。ゴルフに限らずどんな世界でも逸材は存在し、若くして才能の片鱗を見せるものは多い。特に体力勝負のスポーツ界ではその傾向が強いが、なぜハタチを過ぎると唯の人になることが多いのか。低迷し続ける日本のゴルフ界は、この逸材を決して唯の人に終らせてはならないのだ。

 

「神童もハタチ過ぎれば唯の人」とはよく言われることだが、実例は周囲にいくらでもある。反対に「大器晩成」とも言われるが、いま男子プロゴルフ界はアラフォー世代に支えられている現実がある。ジャックニクラスがシニアツアー入りしたとき「私のゴルフはまだ進化していると思う」といった言葉を思い出すが、それは負け惜しみでもなく実感だったに違いない。二クラウスのあと帝王の座を継いだトム・ワトソンが、還暦を迎えた年に全英オープンでプレーオフになるまで優勝を争ったことは記憶に新しい。

 

ハタチ過ぎて成長が止まるのを「早熟現象」ともいうらしいが、肉体的な成長が止まることが原因か、精神的に成長し始めることが原因か良く分からない。
両方が原因になっているとも思えるが、両方が原因になっているとすれば肉体と精神の成長は二律背反してしまう。それではスポーツ選手の人間的な成長はありえないことになってしまうから、この考えは間違っている。人間的な成長は艱難辛苦という人生トレーニングを受けないと得られないと言われるが、早熟現象が起きる人はハタチまでに大成してしまい、人生トレーニングを受ける機会を失ってしまったことが原因なのだろうか。

 

確かにタイガー・ウッズは尊敬する父親の保護を失ったら、厳しい人生トレーニングに耐えられず人生そのものを破綻させてしまった。反対に横峰さくらは父親の手を振り払って自ら人生トレーニングに飛び込んだら、どんどん成長し始めた。ゴルフが人生ゲームに例えられるだけに、この二人は対照的な存在だ。石川遼も松山英樹もこれから人生トレーニングが始ることになるが「では基本とは何か」という課題が生まれる。松山英樹は東北の人に励まされてマスターズに出場しようと決意したそうだが、最初の人生トレーニングとして最高の基本プログラムを与えられたのではないだろうか。見ていて成長を感じる。

 

秘訣とは何か

「学問に王道なし」という言葉があるが、ゴルフにも秘訣はない。米国のトップコーチ達が繰り返し言うことは「基本の反復練習」である。だったら基本の反復練習が秘訣と言うことになるのではないか。これでほとんどの人が「なーんだ」といってがっかりする。がっかりした人の中に名人や達人はひとりもいない。「そうか」と言って基本の反復練習を始める人は名人や達人の証拠だ。
いまタイガー・ウッズと石川遼は毎日「基本の反復練習」をしているらしいが、それを聞いただけで彼らが一級のプレーヤーであり本物のアスリートであることが分かる。なぜなら簡単なようで私たち凡プレーヤーには絶対できないことを根気良くやっているからである。

 

「基本とは何か」という課題は永いあいだ大問題だった。基本が秘訣ならその秘訣は何か、その秘訣は基本だという堂々巡りを繰り返すことになるからだ。その大問題に取り組んだのがNGF(National Golf Foundation)である。1960年代に米国の著名な大学教授やコーチ、女子プロがNGFに集結してNGF教育開発プロジェクトが編成され、ゴルフを学校教育に導入するために基本を統一し、生徒用基本テキスト、インストラクターズマニュアル、コーチズガイド、視聴覚教材を制作した。米国の多くの現役プロがこの統一基本によってゴルフを学んだが、米国のプロがジャック・ニクラウス以降みな同じようなスイングに見えるのは基本が同じだからである。

 

ではその基本はどのようにして定められたかというと、近代ゴルフを確立したベン・ホーガン、バイロン・ネルソン、サム・スニードに代表される戦後のトッププレーヤーたちのスイングに共通する点を検証し、その共通点から誰でも学べる要因を体系的に組み合わせたのである。この手法は米国を工業生産王国に発展させた生産性革命の生みの親、ウィンスロー・テイラーの『科学的管理法』に基づいている。テイラーは熟練工の技を徹底分析し、熟練工に共通する点を一定のトレーニングで誰でも修得できる学習体系としてシステム化した。ドイツ人カール・ベンツは最初の自動車考案者だが、熟練工の技によってクルマをつくろうとした。これに対してアメリカ人ヘンリー・フォードは科学的管理法によって職工を短期養成し、大量生産システムを導入して自動車王国を築いた。

 

テイラーの科学的管理法はアメリカの伝統ワザとしてゴルフ教育にも導入されたが、米国PGAツアーを観ていると次から次へと有望新人が生産されてくるシステムが理解できる。生産工場は数多くのカレッジであるが、スタンフォード大学のような超名門校がトム・ワトソンやタイガー・ウッズなどのトッププレーヤーを送り出す姿に、米国ゴルフ界の奥の深さと教育システムの凄さをあらためて考えさせられる。同時に基本トレーニングが秘訣という意味も良く解る。

 

新帝王誕生か

ボロボロの帝王タイガー・ウッズが欠場するUSオープンで世界中のゴルフファンがアッと驚いた。北アイルランド出身の弱冠22歳ローリー・マキロイがタイガー・ウッズの12アンダー優勝記録を更新して16アンダーで優勝したのだ。12アンダーですら当分破られることはないだろうと言われていたのが、16アンダーとは誰もが恐れ入った。全米プロやUSオープンは毎年コースレート委員や運営委員によって最高難度に設定されるから、出場選手は誰もがパープレーを基準にコースマネジメントしている。だから一番ビックリしたのはコース設定した委員たちだったろう。

 

北アイルランドが何処にあるか、すぐ説明できる人はそうたくさんいないかもしれない。まして北アルランドの国旗を見て英国の一部だと分かる人はもっと少ないはずだ。英国国旗といえば赤青白の米印みたいなユニオンジャックを思い出すが、ゴルフトーナメントにユニオンジャックの旗はなく、なぜか王国旗を掲げて出場する。ゴルフ発祥地スコットランドの国旗は青地に白のバツ十字、イングランドの国旗は白地に赤の十字架、北アイルランドは赤の十字架に王冠、ウェールズは白緑地に赤い竜。四つ足してユニオンジャックになるはずが、なぜか合わせるとウェールズが消えてしまう。いろいろ事情はあるようだ。

 

宗教改革以来、アイルランドはカソリックとプロテスタントの抗争が絶えないようだが、英国領となった北アイルランドは本国アイルランドと英国の板ばさみとなって確執や労苦が絶えないのではないか。私たちには分からないが思想や地勢上の問題は話し合って解決する問題ではない。昨年の覇者マクダウェルも今回のマキロイも言葉で表現できない思い十字架を背負って出場していたに違いない。その重荷をバネに爆発したとするなら、私たちは彼らを心から尊敬し賞賛するだろう。

 

私たちも今、大震災津波に放射能被爆という重荷を背負っている。聖書に「試練は忍耐を生み、忍耐は練られた品性を生み、品性は希望に変えられる」とあるように、北アイルランドの人々が十字架の重荷からマクダウェルやマキロイという希望を見出したなら、私たちも天災の重荷から石川遼や松山英樹という希望を見出したいものだ。二人が国際舞台の希望の星になるためには、もっともっと世界を体験し勉強しなければならない。ゴルフの競技年齢を考えれば未だ20年以上もある。七難八苦を天に願って、練られた品性を生むのが先決だ。日本よりうんと小国の北アイルランド、韓国、南アフリカを思えば確率的には断然有利なはずなのだから。

 

アジアの王者

5月第二週に行われたメジャートーナメント「ザ・プレーヤーズ・チャンピオンシップ」で、韓国プロ K.J.チョイがプレーオフを制して優勝した。この優勝には深い意味があったように思う。
昨年四月、私生活上のスキャンダルでボコボコにされたタイガー・ウッズが、再起を図って「マスターズ」に出場したとき、ウッズに失望したファンや反感を持つ白人たちが、ヤジを飛ばして試合を妨害するのではないかと懸念されていた。そんな心配がある中で、マスターズ運営委員会はウッズの同伴プレーヤーにK.J.チョイを選んだことは実に賢明な策だった。K.J.チョイといえば米国PGAツアーの中でも屈指の人格者といわれる韓国ベテランプロだ。このブログでも書いたとおり、当時は傷だらけの王者タイガー・ウッズと一緒にプレーするのは誰もが嫌がった。そんな中で一緒にプレーすることになったK.J.チョイは、タイガー・ウッズの守護神の如き形相で寄り添い、四日間ウッズを守り通した。この功績に感謝したのはウッズ自身と運営委員会だけだったかもしれないが、間違いなくゴルフ史に残る功績を残したに違いない。このとき私は「この男こそアジアの帝王にふさわしい」と思った。
K.J.チョイは風貌体格共にアジアの代表といえる。がっちりした四角い身体と無骨な面構えは、フェアウェイやグリーンよりも、中国大陸やモンゴル平原の方が似合いそうだ。日本でも彼にそっくりな像が寺の山門に仁王立ちしている。

 

眼光鋭い無骨な顔は終始ニコリともせず、ひたすらゴルフを見つめている。大きな拍手や声援に対しても黙礼する程度で、何者にも媚びない毅然とした態度は、戦いに命を懸ける武人の姿に映る。
ザ・プレーヤーズチャンピオンシップ最終日、厳しい戦いの末にK.J.チョイ(41)とデビッドトムズ(43)二人の決戦になったが、プレーオフになった瞬間チョイは終始リードを保ってきたトムズに歩み寄り、肩を叩いてトムズを慰め健闘を讃えたがその態度は実に紳士的だった。戦いの中にも常に敵に惻隠の情を示すチョイの姿勢に、武士道精神そのものを感じる。その堂々とした落ち着きと風格は、プレーオフが始る前からトムズを圧倒していた。恐らく多くの中立的な観戦者はチョイの勝利を予感したはずだ。特にゴルフというスポーツゲームが、技量や闘争心だけで勝てない競技であることは誰もが分かっている。この試合にも世界中から数多くの若手ホープが出場したが、結局はアラフォー同士の優勝争いになったし、精神的に充実したK.J.チョイが勝利を収めた。昨年のマスターズで彼に守ってもらった帝王タイガー・ウッズは、初日ハーフで42を叩き棄権した。
精神不安定に陥っている帝王は、既に戦うこともできないほどボロボロになってしまったのだろうか。この試合で帝王は世界ランキング8位に転落したが、代わってK.J.チョイは15位に浮上し、アジアの帝王と呼べる風格を示した。

 

池田勇太のスイング

池田勇太が強くなってきた。強くなったばかりかアンちゃん風だった勇太に王者の風格が出てきた。人が地位をつくるのか、地位が人をつくるのか分からないがとにかく成長した。テレビに映る姿を見て日に日に惹かれていく。あの独特なスイングも魅力的に見えてくるだろう。

 

池田勇太のスイングは何処で身につけたか知らないが、米国ではジム・ヒューリック、日本では青木功と同系統である。かつて河野高明や草壁政治が採用していた通称「逆八スイング」といわれるスイング系統である。ビギナーやアベレージゴルファーにはインサイドに引いてアウトサイドに下ろしてくる「八の字スイング」が多いが、これは後ろからスイングプレーンを見ると八の字を描いているように見えるため、このように名付けられた経緯がある。これとは反対に「逆八スイング」はストレートに引いてインサイドに下ろしてくるから八の字が反対に描かれて逆八という訳だ。

 

30年ほど前、青木功が世界的プレーヤーになりだした頃、米国コロンビアカントリークラブのコーチで全米第一人者といわれたビル・ストラスバーグが「青木功こそ理想のスイング」と絶賛した。当時NGFアメリカセミナーの主任講師だったビルを日本にも招聘して東京・京都・大阪でセミナーを開いたが、200人以上受講して誰もこのスイングをマスターできなかった。ビルの言葉を借りれば「クラブを真直ぐ上げて、右脇を絞めるように引き下ろし、また上げる」と簡単にいうのだが、誰も巧くできなかった。セミナーに集まったトッププレーヤーたちはビルの講義を聴きスイングを見て「玄人芸」と絶賛したのだが。

 

ということは青木功も池田勇太も黒光りした玄人芸なのである。人知れず数限りない球を打ち続け、百戦練磨して磨き上げた達人名人のワザである。素人が簡単に盗んだり真似のできる芸ではない。恐らく本人も自分の技を伝えられるとは思っていないはずだ。「名選手必ずしも名コーチならず」の例えどおり、絶対といってよいほど名人芸は伝授できるものではない。子供は器用だから結構上手にスイングを真似するだろうが、経験や体験は最終的に真似したりバーチャルトレーニングによって身に付くものではない。

 

基本とは名人や達人に共通する原則を導き出し、その中から誰でも真似のできる普遍技術を体系的に整理したものである。だから基本はつまらなく退屈である。こんなこと猿でも真似できると思うことばかりだ。その基本をタイガー・ウッズも石川遼も毎日コツコツ練習しているという。これはまさに凄業だ。

 

ゴルフの怒り

ゴルフゲームは基本的にマッチプレーとストロークプレーしかない。マッチプレーは人と人の勝負で、ストロークプレーは人とコースの勝負だ。最近日本でマッチプレーをする人を殆んど見なくなった。イギリスでは今でもストロークプレーをする人は殆んどいないらしい。スポーツは全て誰かを相手に勝負するものだから、誰を相手に闘っているか忘れると勝負にならない。
実際にゴルフをしている人で、どれだけの人が闘う相手が誰かを認識しているかとなると甚だ疑問だ。私も含めてほとんどの人が自分と闘ってしまっているのではないか。もしそうでなければ、あんなに腹が立ったり情けなくなるはずがない。みんな自分に腹が立ち情けなくなるのだ。だってコースが相手だと承知の上でプレーしているし、コースは自分に何をした訳ではないことも良く分かっているから、結局は自業自得と諦めなくてはならない。それがしゃくの種なのだ。どんなに人格者といわれる人でも、目尻がつり上がったり唇をかみ締めたりするから、相当怒っているなと分っておかしい。「笑っちゃ悪いよ」と思うともっとおかしくなる。今でも20年も30年も前の出来事を思い出して一人で笑うことが時々ある。笑われた相手は今でも思い出して腹を立てているかと思うと、またおかしくなる。自分もきっと誰かに笑われているに違いないと思えば「おあいこ」ということで許されるだろう。

 

テレビで観ているとタイガー・ウッズと石川遼の顔が引きつっている。心中穏やかでないことがすぐ分かるほどだから、二人ともコースと無心に闘う心境ではないのだろう。タイガー・ウッズが心中穏やかじゃないことは良く分かるが、石川遼は何が原因だろう。付きまとうマスコミやファンか、コマーシャルの煩わしい仕事か。メンタルスポーツの代表のように言われるゴルフの世界で雑念は絶対禁物だが、二人には雑念が多すぎるのではないか。去年の二人の顔は輝いていたが、今年はいささかくすぶっている。最もタイガーは父親を失ってから心の支えを失ったせいか、王者の風格がなくなり些細なことに腹を立ててイライラしていることが良くあった。ゴルフが王者になれても人間はなかなか王者になれないことを証明しているようだ。

 

王者の風格というと野球のイチローと松井選手、相撲の白鳳、水泳の北島選手、ゴルフでは宮里藍に見られるようになった。風格ってナンだといわれると困るが、闘う相手を良く弁えて決して自分や他人に腹を立てず、少なくとも他人に悟られることなく、自分で解決できる人に備わるものなのだろう。聖書はいう「怒りを治めるものは勇士に勝る」と。でもエンジョイゴルファーにとっては「怒るも愛嬌のうち」と思っておおらかにゴルフを楽しみたいものだ。