ルーク・ドナルドのゴルフ

ダンロップフェニックスに6打差で優勝したルーク・ドナルド(英国)のゴルフを久しぶりにじっくりと観察させてもらった。世界の賞金王になるような人のゴルフはどこが違うのだろう。テレビ画面での観察だから大分的外れかもしれないが、スイングだけでなく表情、挙動、歩行姿など仔細に観察した結果、そこにはオーラだの栄光だの貫禄だの王者を表すようなものは何も見られない。物静かなひとりの英国人が淡々とゴルフをしている姿しか見えてこない。派手なパフォーマンスでギャラリーを沸かせるプロゴルファーの姿を見慣れてきた私たちにとって、改めて何かを感じさせられるルーク・ドナルドだった。

英国で発祥したゴルフは何百年も前から騎士道だの紳士道だの倫理道徳や行動規範を追求する精神文化として伝わってきた。百年ほど前に米国や日本に伝わったが、最初のうちは英国伝統精神を守っていたものの段々経済成長に伴って商業主義が支配し始め、伝統精神は影を潜めていったようだ。それでも米国は英国と同じプロテスタント国だったために、英国伝統精神を守ろうとする精神基盤は残っていたようだ。それが証拠に帝王タイガーウッズの非道徳的な言動に対して「No」を突きつけ謹慎を申し付けている。米国の国家理念とゴルフの基本精神は気脈を通じていることを明らかにした。

日本に伝わったゴルフは高度経済成長が始まる前1960年代までは英国伝統精神を受け継ごうという姿勢がはっきりしていたが、1970年代に入り高度経済成長が始まるや、伝統精神なんかかなぐり捨てて一直線に商業娯楽主義に突き進んでいった。さらに1980年代に入ると金融資本主義に毒されバブルに便乗して大暴れしてしまった。英国や米国の伝統名門コースを札束で張り倒すように買い漁ったのはこの頃である。1990年代に入ってバブルが崩壊すると日本のゴルフは大破綻し、プードルが水を浴びたようなみすぼらしい姿に変わり果てたが、日本のゴルフを復活させる道は英国伝統精神を取り戻すことかもしれない。

私たち日本のゴルフファンはバブル崩壊後、次々に破綻していくゴルフ場や紙屑となっていく会員権に幻滅したというより、虚勢を張って気取りきった田舎侍のようなゴルフ場の姿勢や見栄っ張りの成り上がり者集団のようなゴルファーの姿に幻滅した。いま日本の若者がゴルフに何の魅力も感じなくなったのは幻滅感だけが脳裏にこびり付いているからに違いない。でも思い直して欲しいのは世界を見る目と世界から日本を見る目を持てば、私たちがどんなに恵まれた国に生まれ育ったかが分かる筈だから。日本は米国に次ぐ世界第二位のゴルフ大国であること。日本には英国に負けない武士道や武道、茶道や華道などの高い精神文化が備わっていること。パラダイムの転換を図れば日本のゴルフは必ず復活するということをルーク・ドナルドは教えてくれた。

 

キャディゴルフからの脱皮

久しぶりに接待ゴルフ場でゴルフをした。すっかりセルフプレーに慣れたいま改めて思うのは、日本のゴルフ近代化を遅らせたのはキャディ制度から脱皮するが遅れたのが原因ではないかという疑問だ。今もそうだが日本では成人ないし社会人になってからゴルフを始める人が多いから、どうしてもキャディに面倒を見てもらわないとゴルフができなくなってしまった。日本のキャディは接待係と進行係の役目を負っているから旅館の女中、料理屋の仲居、宴会場のホステス宜しく実に客の面倒見が良い。「おもてなし」という日本固有のサービス文化の典型だ。日本のゴルフ場は競ってキャディ教育に力を入れたものの肝腎のゴルファー教育を怠ったたため、世界一のキャディサービス制度が確立した反面、セルフプレーのできない過保護ゴルファーが育ってしまった。

 

私たち日本のゴルファーは総理大臣から中小企業の社長まで、イヤイヤ女性ゴルファーからジュニアゴルファーまでがキャディの過保護サービスがなければゴルフができなくなってしまったのだ。お客さまであるプレーヤーは球を打つだけで、後のことは全てキャディが世話をしてくれるから心置きなくゴルフを楽しめば良い。ルールの適用から、飛ばしたティーを拾うのも、ダフった跡も直すのも、クラブをバッグにしまうのも、ボールを捜すのも、次のクラブを選ぶのも、方向を確認するのも、バンカーをならすのも、ボールマーク跡を修復するのも、マークしてボールを拭くのも、旗ざおを支えるのも抜くのも元に戻すのも、み~んなキャディの仕事だ。最近は余り見かけなくなったが、プレーが終わった後にキャディの勤務評定を求めるコースもある。ココまでは職務だから仕方がないとして、キャディがライの良さそうな所にボールを動かしたりフェアウェイに出してくれるのはサービス過剰を超えて規則違反幇助になる。困ったことにキャディの過保護で育った私たちは違反に対して何の悪気もなく、これが世界に通用する正統ゴルフだと思い込み、自分の人格が疑われ日本人の信用を落としていることに全く気が付いていない。

 

これからTPPはじめ海外で貿易交渉会議が行われ、親睦ゴルフや国際交流ゴルフが盛んに行われることだろう。しかし、まさかまさか安倍さん、麻生さんはじめ政治家、外交官、官僚のみなさん、随行する企業代表のみなさんは過保護ゴルファーじゃないでしょうねえ。お願いだから国際舞台で日本人の本質を問われるようなゴルフはしないで下さいよ。私たちだって海外でゴルフをする機会も多くなるだろうし、いつ外国人とゴルフをするか分らない。今回エチケットやルールの基本映像テキストを無料公開したのは、東京オリンピック目指して一人でも多くの人に正統ゴルフやスマートゴルフを学んで欲しいと思ったからで、海外でゴルフをするときは必ず出発前に「ngf  world」で検索して、エチケット&ルールだけでも学習して頂きたい。中国東南アジア在住の日本人ゴルファーに是非お願いしたいのは、NGFのeラーニングで正統ゴルフ・伝統ゴルフを学び、日本は決してゴルフ文化後進国ではないことを証明して欲しいのです。

 

 公開映像  Enjoy Golf Lessonsゴルフの達人 ルール&エチケット編

 

 

藤田寛之というプロ

今年度賞金王に藤田寛之(43)が輝いた。同時に世界ランキング43位をキープしてマスターズ出場権を獲得した。谷口同様、以前から注目していたアラフォー実力プロだが、ここまで来ると注目を超えて尊敬に値する。用品用具や分析機器が進化したうえ、情報が豊富になった現代は経験の乏しいスターを次々と排出する。そんな中で衰える肉体や精神をコントロールしながら経験を生かして最大限のパフォーマンスを発揮するベテランプロの味は、人生に例えられるゴルフの本質を表し、オールドファンを魅了して止まない。米国PGAツアーではフィル・ミケルソン、アーニー・エルス、ジム・ヒューリック、スティーブ・ストリッカーらがベテランプロとして上位に名を連ねる。

 

ご本人には内緒だが「よくぞあの顔であの体であのスイングで、そしてあの歳で」とびっくり仰天の連続である。藤田プロの顔はテレビや雑誌で嫌というほど見せていただいたが、お世辞にもスター性があるとはいえない。しかし弾道を追う厳しい顔、鋭い眼に妥協の余地はない。一点を見続けてきた者だけが持つ小野田少尉や杉原輝雄と同じものである。米国PGAツアーに160センチ級はほとんどいない。しかし、米国メジャートーナメントで4日間戦うには相当の技術、体力、気力が必要である。以前にPGAナショナルブラックティーでプレーしたことを書いたが、私ごとき凡プレーヤーに太刀打ちできる相手ではない。ティーショットが池を越えない、フェアウェーに届かない、ラフから2,30ヤードしか飛ばない、いくら打ってもグリーンに届かない、バンカーから容易に出ない、2パットで収まらない。七難八苦とはこのことだ。

 

私は最初、藤田プロを見てなんと不器用なスイングだろうと思ったが、注目し続けるうちに鍛え抜かれた職人の技だと思い始めた。杉原輝雄は両腕でつくられたスクウェアをトップからフィニッシュまで崩さずにスイングコネクションを保っていたが、藤田寛之は両腕でつくられたトライアングルをトップからフィニッシュまで崩さずにスイングコネクションを保っている。あのスイングをするには全身が相当鍛えられていなければ無利だ。全身のパワーが集中してボールに伝わるメカニズムは科学的に解明されていない。野球でいえば、さほどスピードはないのにホームランを打たれず、頻繁にバットを折るような重い球に近いのではないか。PGAワールドツアーは環境や気象条件の異なる世界を舞台にして試合が行われるから、どんな条件下でもコンスタントに自分のパフォーマンスを発揮しなければ勝負にならない。そのうえ言い訳は一切通用しない。

 

一般にスポーツ選手は社会行動には不器用だが身体運動には器用な人が多い。特にプロスポーツ選手は動きそのものに器用さや華麗さがあり「動けば即技」を感じさせるが、藤田寛之にはそれがない。アマチュア名手でクラブデザイナーの竹林隆光さんの師匠が「本物のゴルファーは普段決してゴルファーに見えないものだ」といわれたそうだが、その意味からすれば藤田寛之というプロは本物のプロに違いない。どんな不器用そうな動きも、鍛え抜かれた正確な反復再現性があれば、それは素人を寄せ付けないプロの技であり芸術ですらあるからだ。改めて来年は藤田寛之というプロをじっくりと鑑賞させてもらおう。

 

お座敷ゴルフ

「お座敷ゴルフ」という言葉を聞いたこともない人が増えてきたに違いない。これぞガラパゴス化の代表といえるかもしれないが、日本のゴルファーを決定的に駄目にした根源なので多くの人に知ってもらいたい。そもそも「お座敷」が日本固有の文化だから外来スポーツ文化のゴルフと馴染むわけないが、見事に融合させたところに強烈なインパクトがある。「お座敷」はもっぱら政財界人の商談の場、密談の場として利用されてきたが、それ以前は旦那衆の遊びの場として利用されていた。遊びの場を商談の場、密談の場として利用するとはスマートといえばスマート、ウサンクサイといえば限りなくウサンクサイ。評価はともかく日本の経済成長に大きく貢献したことは事実なのだ。

 

しかし、日本のゴルフ文化にとっては成長どころか堕落に貢献した。そもそもゴルフは遊びにしろ競技にしろ自己責任・自己審判を大原則に成り立っている。エチケットから始まって状況判断・クラブ選択・結果責任・規則裁定を全て自己責任で進めなければならないのがゴルフだが、その大半をキャディに委ねたのが「お座敷ゴルフ」の姿だ。お座敷なら仲居や芸者が果たす役割をコースではキャディが一手に引き受けてくれる。OB・バンカー・距離・目標・風向・安全確認から、クラブ選択・ルール裁定・処置方法、さらにはボール探し・バンカーならし・グリーン修復・パットライン指示・旗ざお持ち・ボールマーク・ボール拭き、おまけに慰めと励ましの言葉もかけてくれる。

 

欧米豪州なら大統領といえども全てを自己責任で実行するが、それをセルフプレーという。いい加減なことをすればゴルファー以前に人間性や大統領の資質まで疑われる。お座敷ゴルフで育った日本のゴルファーは欧米諸国の人とまともにゴルフはできない。特に政財界のみならず民間の要人ともゴルフはしない方がいい。交流以前に人格を疑われては元も子もない。日本のゴルフがガラパゴス化していることは、外部環境に触れて初めて分かることだが、ガラパゴス島で育ってしまうと結構居心地が良くて「コレはコレでいいんじゃない?」と思ってしまうところが落とし穴だ。

 

周りの空気が読めない人のことを「KY」と言うらしいが、今や日本全体が外国からKYといわれているような気がしてならない。ゴルフエチケットの基本理念は 1.安全に対する配慮 2.他のプレーヤーに対する配慮 3.コースに対する配慮と全て周りの空気を読むことばかり。お座敷ゴルフはその全てをキャディに委ねてしまったところに問題があった。キャディ教育ばかり熱心にして肝心のゴルファー教育をしてこなかったことは、ゴルフの基本精神からしても本末転倒だった。しかしゴルフは自己責任・自己審判のゲームである以上、ゴルファーひとり一人が自己責任で自分を教育しなければならないことも確かだ。

 

18ホールスループレー

欧米豪州でゴルフをした人はアウトとインの中間で昼食休憩を取った経験はないはずだ。通常アウトからスタートして9番を終わり、トイレかショップに用事がない限りクラブハウスに戻ることはない。9番と10番がクラブハウスから離れていることも多いから、トイレはプレー途中で用を足し、お腹が空いたら持参したサンドイッチ、バナナ、チョコレートなどを食べる。移動売店車が回ってきたら買って食べればいいし、愛想の良い売り娘が来たら無理して買って食べても良い。ゴルフはハイキングと同じだから、プレーしながらモノを食べてもエチケットやマナーを問われることはない。アリゾナ当たりでゴルフをするときは、5リットルくらい水を用意しないと生きては帰れない。料金を払ってスタートしたら、後は全て自己判断・自己責任でプレーするのが国際標準のゴルフスタイルなのだ。スターターは「グッドラック」と一言いうだけで、後は一切干渉することはない。

 

9ホールで1時間休憩し、酒を飲んだりご馳走食べたりして残り9ホールをプレーし、終わったらゆっくり風呂に入る「お座敷ゴルフ」は、日本固有のゴルフスタイルなのだ。日本のコースでは9ホール終わって調子が良いからこのままプレーを続けたいといってもほとんど許されない。問答無用で午後のスタート時間を告げられ、最低40分から1時間の休憩を申し渡される。だから日本のゴルファーは18ホールスループレーする体力も気力も備わっていない。一世代前のボビージョーンズの時代には、一日36ホール競技をしていたから18ホール終わって休憩と食事を取らないと体力が持たなかった。最近は9ホールで充分という人も出てきたが、現代人はそんなに体力が落ちたのだろうか。これは体力の問題より習慣の問題だ。欧米豪州でゴルフをする場合、日本人といえども18ホールスループレーが原則だから、疲れて休みたければ後続組に「少し休みたいので、お先にどうぞ」といえば気持ちよくパスしてくれる。実際には海外のゴルフコースで、途中疲れて休んでいる日本人ゴルファーの姿を見たことがない。疲れるどころか日本でプレーしている時より遥かにハツラツとした姿で、雨が降ろうが雷が鳴ろうが早朝から日没まで頑張っている。だから日本人は現地の人から「カミカゼゴルファー」と囁かれている。

 

日本固有の「お座敷ゴルフ」がいつから定着したか良く分からないが、私自身も外国人に指摘されるまで気が付かなかった。ただ周りがそうしていることと食堂売上を伸ばすためであることだけは解っていた。その国固有の習慣や環境を常識として受け入れていること自体をガラパゴス化というのではない。ガラパゴス化というのは、その常識が国内でも通用しなくなり絶滅の危機に瀕したとき初めて使われる表現なのだ。やがて「お座敷ゴルフ」を懐かしく思い出す時が来るのだろうが、ゴルフ場の絶滅だけは見たくない。

 

祈って優勝したババ・ワトソン

PGA ツアーのメジャートーナメントに優勝することは並大抵なことではない。メジャートーナメントとは全英オープン・全米オープン・全米プロそれにマスターズの四試合をさすが、中でもマスターズは特別な目で見られている。マスターズ創設者ボビー・ジョーンズは史上最強のアマチュアゴルファーで、28歳のとき当時四大試合だった全英アマ・全米アマ・全英オープン・全米オープンに優勝して年間グランドスラマーを達成するや、間もなく引退してしまった。引退して弁護士業を営むかたわら、コース設計家アリスター・マッケンジーとともにオーガスタナショナルを建設し、1934年世界のゴルフマスター達を招いてトーナメントを開催した。この試合が第一回マスターズとなり、その後毎年同じオーガスタナショナルで開催されている

 

四大メジャートーナメントの中でも何故マスターズだけが特別なのかというと、ボビージョーンズは敬虔なクリスチャンとして知られ、キリスト教文化であるゴルフの良き伝道者として尊敬されていたからだ。そのために彼は「球聖」とか「ゴルフ伝道師」といわれるようになったようだが、彼の思想や哲学がマスターズの伝統となり、ますます商業化していく現代ゴルフに警鐘を鳴らし歯止めをかける役割を担っているからでもあるようだ。世界のハスラー達が莫大な懸賞金を目当てに血眼になっている賭博場の舞台裏では、神聖なるゴルフの伝統思想など忘れられてもおかしくない。そのような時代にあってマスターズとライダーカップだけが神聖なる伝統思想を守ろうとしている。

 

マスターズ最終日の朝、ババ・ワトソンはツイッターで聖書の言葉を呟いていた。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことに感謝しなさい。」
最終日の大逆転劇は、神が彼の祈りに応えたものと多くの人が受け止めたが、最も驚き感動したのは本人自身だったことは間違いない。それでなければ優勝経験もありベテランの域に達したワトソンが、人前であんなに大泣きするはずがないし、ギャラリー全員がいつまでもスタンディングオベーションで祝福するはずがない。トップに追いついた連続バーディーも神がかりだが、勝負を決めたプレーオフ2ホール目の林の中から打ったセカンドショットは、まさに奇跡としか表現のしようがない。観ている者全てが第一打ティーショットで勝負は決まったと思ったはずだが、本人だけは祈りが聞かれることを信じて疑わなかったに違いない。マスターズ創設者の球聖ボビージョーンズが、試合の前の晩は早く寝室に入り聖書を読んで祈っていたことを、ワトソンはもとよりマスターズファンの多くが知っていたからである。

 

タイガー・ウッズの復活

もう駄目かと思っていたタイガー・ウッズが復活優勝した。2010年、相撲界の帝王朝青龍とゴルフ界の帝王タイガー・ウッズが、ともに帝王の品格を問われて失脚したことはまだ記憶に新しい。朝青龍は日本の伝統文化を破ったモンゴル人として、タイガー・ウッズは白人プロテスタント文化を破ったアジアアフリカ人として、ともに歴史を変えた風雲児でもあった。歴史を変えられた側から相当の反感があったことも事実だ。記録や伝統は守るものでもあり破るものでもあるとすれば、二人の偉業は歴史的な出来事として評価されても良いはずだが、二人とも品格を問われて失脚したのは実にまずかった。

 

そもそも歴史を変えるような大人物に品格を備えた人など聞いたことがない。ジンギスカン・ナポレオン・平清盛・織田信長みんな品格を問われている。なまじ品格など備わっていると、歴史を変える風雲児にはなれないのかもしれない。しかし勘違いしてはいけない。風雲児になれないからといって必ずしも品格を備えている訳ではない。私たちは風雲児になる気もなければ、なれるはずもないことも解っているから、せめて風雲児に負けない品格でも備えようではないか。品格あるゴルファーなら心がけ次第で誰でもなれる。

 

タイガー・ウッズが復活してもしなくてもゴルフの歴史は変わっていくだろう。英国に発祥し、米国はじめWASPホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの文化として発達したゴルフが、21世紀にはAAAアジア・アラブ・アフリカに渡って大発展することは目に見えている。ゴルフの世界にもグローバル化の波が押し寄せてきたといえるだろう。21世紀ワールドゴルファーの共通語が世界統一のエチケットルールだとすれば、品格を備えるのは難しいことではない。エチケットルールは「知っているか知らないか。実行しているかしてないか」の違いだけで、人種国籍どころかシニアゴルファーでもジュニアゴルファーの前に土下座しなければならない世界でもあるのだ。

 

タイガー・ウッズの復活は品格の復活であって欲しい。世界の青少年の、とりわけアジアアフリカの青少年の夢を壊した失望の存在に終らず、挫折から復活した希望の存在になるならば、ゴルフの生きた教材として高く評価されるに違いない。そもそもキリスト教は贖罪と復活の奇蹟を信じる信仰として存在するのだから、タイガー・ウッズが前非を贖罪し品格ともども復活するならば、青少年どころか世界の大人が揃って彼を尊敬し、ゴルフの持つ素晴らしいパフォーマンスを信頼することになるのは間違いない。

 

国際ゴルファー

サッカーの国際試合を観ていると日本人選手は男女とも国際選手の風格を備えてきたように思える。武士道ゴルフに憧れる私の目には最近まで「サッカーなんてクソスポーツ」に見えた。だって反則を取るためなら恥も外聞も無く何でも演技する姿は、サムライどころかスポーツマンシップのカケラもないではないか。柔道の国際試合で散々泣かされた日本選手にとって、またもやサッカーで泣かされると思っていたがオッとどっこい、チームワークというお家芸で本領を発揮するだけでなくサムライの風格を見せているではないか。相手の卑怯なプレーに対して平然とした態度で臨む姿は立派だし風格を感じる。サムライなら相手が卑劣な行動に出た瞬間、苦しい立場に追い込まれている相手の心情を読み取って惻隠の情を抱くことができる。だから益々冷静に相手を観察して冷静に対応することができるので、既にその時点で勝負あったということだ。

 

私たち日本人の多くは英語に対する言語障害を持っていて、英語を聞いた途端にヤバイという気分になる性癖がある。世界には何百カ国語もあるのになぜ英語だけヤバイと感じるのか不思議に思って考えてみると、英語だけが義務教育になっているからのようだ。他の言葉に出会っても全く動揺しないのに不思議と英語に出会うと緊張する人が多い。バリバリの国際選手として知られる伊達公子さんも以前は悩んだと聞くが、日本人が国際選手として活躍するには最初にこの障害を克服しなければならないようだ。私たちが国際ゴルファーとして世界中の人と交流しようと思ったら、何ヶ国語マスターすれば障害を克服できるか。「無理、無理!無駄な努力はやめた方がいい」。実は私たち日本人の多くは英語に対して言語障害者ではなく精神障害者なのだ。英語が上達しないトラウマにとりつかれた精神障害者と思った方が良い。

 

国際ゴルファーになるには英語を勉強するよりエチケットルールを勉強するに限る。エチケットルールは国際統一規則だから世界中どこに行っても通じる。世界中のゴルファーがそれぞれ自国語でルールブックを読んでいるが、内容は全く同じだから、どれだけ勉強しているか一緒にプレーすればすぐ分かる。
特に国際的に礼儀正しいと評価されている日本人は、エチケットを大切にしないと格下げされる危険があるから気をつけないと。言葉が通じなくても心はすぐ通じ合うもので、プレーヤーとして二流・三流でもゴルファーとして一流なら18ホール終わったとき「またゴルフをしましょう」といって握手を求められ連絡先を教えてくれないかと請われるはずだ。そのとき連絡先は英語で書く必要はない。ローマ字と数字で結構。

 

アジアの王者

5月第二週に行われたメジャートーナメント「ザ・プレーヤーズ・チャンピオンシップ」で、韓国プロ K.J.チョイがプレーオフを制して優勝した。この優勝には深い意味があったように思う。
昨年四月、私生活上のスキャンダルでボコボコにされたタイガー・ウッズが、再起を図って「マスターズ」に出場したとき、ウッズに失望したファンや反感を持つ白人たちが、ヤジを飛ばして試合を妨害するのではないかと懸念されていた。そんな心配がある中で、マスターズ運営委員会はウッズの同伴プレーヤーにK.J.チョイを選んだことは実に賢明な策だった。K.J.チョイといえば米国PGAツアーの中でも屈指の人格者といわれる韓国ベテランプロだ。このブログでも書いたとおり、当時は傷だらけの王者タイガー・ウッズと一緒にプレーするのは誰もが嫌がった。そんな中で一緒にプレーすることになったK.J.チョイは、タイガー・ウッズの守護神の如き形相で寄り添い、四日間ウッズを守り通した。この功績に感謝したのはウッズ自身と運営委員会だけだったかもしれないが、間違いなくゴルフ史に残る功績を残したに違いない。このとき私は「この男こそアジアの帝王にふさわしい」と思った。
K.J.チョイは風貌体格共にアジアの代表といえる。がっちりした四角い身体と無骨な面構えは、フェアウェイやグリーンよりも、中国大陸やモンゴル平原の方が似合いそうだ。日本でも彼にそっくりな像が寺の山門に仁王立ちしている。

 

眼光鋭い無骨な顔は終始ニコリともせず、ひたすらゴルフを見つめている。大きな拍手や声援に対しても黙礼する程度で、何者にも媚びない毅然とした態度は、戦いに命を懸ける武人の姿に映る。
ザ・プレーヤーズチャンピオンシップ最終日、厳しい戦いの末にK.J.チョイ(41)とデビッドトムズ(43)二人の決戦になったが、プレーオフになった瞬間チョイは終始リードを保ってきたトムズに歩み寄り、肩を叩いてトムズを慰め健闘を讃えたがその態度は実に紳士的だった。戦いの中にも常に敵に惻隠の情を示すチョイの姿勢に、武士道精神そのものを感じる。その堂々とした落ち着きと風格は、プレーオフが始る前からトムズを圧倒していた。恐らく多くの中立的な観戦者はチョイの勝利を予感したはずだ。特にゴルフというスポーツゲームが、技量や闘争心だけで勝てない競技であることは誰もが分かっている。この試合にも世界中から数多くの若手ホープが出場したが、結局はアラフォー同士の優勝争いになったし、精神的に充実したK.J.チョイが勝利を収めた。昨年のマスターズで彼に守ってもらった帝王タイガー・ウッズは、初日ハーフで42を叩き棄権した。
精神不安定に陥っている帝王は、既に戦うこともできないほどボロボロになってしまったのだろうか。この試合で帝王は世界ランキング8位に転落したが、代わってK.J.チョイは15位に浮上し、アジアの帝王と呼べる風格を示した。

 

ゴルファーとプレーヤー

私は永年ゴルフの世界にいながら「ゴルファー」と「プレーヤー」を意識的に区別してこなかったし、言葉の意味についても明確に定義してこなかった。
タイガー・ウッズや朝青龍の問題が起きて「はてな?」と真剣に考え出したのが正直なところだ。かつて「ゴルフ人口」を定義するのに「練習場ゴルファー」と「コースプレーヤー」と無意識に使い分けていた時期があるが、厳密に定義したわけではない。練習場にはコースに行った経験がない人も数多くいるだろうという意味で漠然と「練習場ゴルファー」といっていた。真面目に考えると「ゴルファー」と「プレーヤー」は明確に区別しなければいけない気がする。

 

普段ゴルフコースにはプレーする人しかいないから、全員プレーヤーといっても良さそうだし、全員ゴルファーといっても良さそうな気がするが、トーナメント会場となったコースでは、選手だけがプレーヤーでギャラリーはゴルファーも非ゴルファーもいる。最近、石川遼のまわりにはケータイカメラを持った「追っかけおばさん」がいっぱいいるが、どう見てもゴルファーには見えないもののコースに行った経験はある人たちだ。コースだけではなくテレビや雑誌の前にもゴルフの経験はないが、私以上にゴルフ界に詳しい人たちがいる。
インターネットの世界にはクラブもボールも触ったことがない「ゴルフオタク」が相当いるらしいが、実態については私もまだ良くわからない。このような人たちは「プレーヤー」ではないが「ゴルファー」と呼ぶべきだろうか。

 

国技館に行けば「相撲取り」と「相撲ファン」はすぐ区別できる。ちょんまげ結ってふんどしを締めてるいる人が「相撲取り」で、その他の人は全員「相撲ファン」だ。最近は「女性相撲ファン」がいっぱいいるが、ほとんどのひとが相撲経験はないはずで、横綱審議会の委員を務めた内館牧子さんだって相撲を取った経験はないと思う。でも内館さんの朝青龍に対する見解は立派で「アスリートとして尊敬できても横綱として認め難い」といって伝統を重視された。さすがに大学院で「大相撲の宗教学的考察」という論文を書かれただけのことはある。米国ゴルフ協会やマスターズ委員会がタイガー・ウッズに対して明確な見解を表明できなかったことに較べて実に立派だったと言いたい。
歴史と伝統のある日本の大相撲と歴史の浅い米国のゴルフとの差が歴然とした気がするが、本来なら英国に発祥するゴルフは大相撲以上の歴史と伝統をもっているし、宗教学的に考察したら「プレーヤーとしては尊敬できてもゴルファーとして認め難かった」はずである。マスターズ創設者のボビー・ジョーンズはプレーヤーである以前に、キリスト教騎士道精神を持った立派なアマチュアゴルファーとして聖人の冠を付された人だからである。