ゴルフ再生への道 1-12 産業再生と高齢社会

日本もかつては70%以上の人が第一次産業といわれる農林水産業に依存していたが近年は僅か5%に過ぎない。そしてこの5%の人を保護するために莫大な国家予算が使われているが、多くは延命治療に近い捨て金になっている。1キロ50円で輸入できるコメを350円で国内生産するために、マグロや鯨をわざわざ地球の裏側に捕りに行くために日本は国際舞台で袋叩きに遭っている。「金と頭は使いよう」というが、その一次産業保護の捨て金と森林組合やアメリカの知恵を美しい自然環境や豊かな地域環境づくりに使えないものか。日本は国土が狭いと言いながら森林や田んぼが余っているのだから生産性や経済性、社会性や公共性の高い目的に再利用したら良いと思うのだが。

 

シルバータウン構想は20年以上前から提案していたがバブルの時代は「年寄り臭い」と言われ、崩壊後は「それどころではない」と言われた。グローバル時代を迎えて日本の産業構造が大きく変化し、少子長寿社会となって人口構成も変化した。歴史的変化の中で農林水産業もゴルフ場も存続が危ぶまれているが、うまくすれば両者とも再生する可能性がある。再生どころか21世紀型の先端新事業や先進高度社会が誕生するかもしれない。今や世の中から厄介者扱いされている年寄りと破綻ゴルフ場が協力してユートピアを建設するとなれば、若者だって血湧き肉踊る話ではないか。これぞ究極のリサイクルビジネスだ。

 

長年社会人として大人社会を生きてきた者が、ある日突然「自由に生きて良い」といわれても朝起きて行く所がない、やることがないの「サンデー毎日」が続けば「何のために生きているのか」という疑問を抱くのは大人ゆえの悩みだ。ところが人間は歳と共に成長すると思ったら大間違い。本当は歳と共にガキっぽくなるようで優しく言えば「子供に返る」らしい。ならばいっそのこと老後は子供のように毎日屈託なく過ごしたいものだが、ゴルフ場で戯れる年寄りを見ていると「ゴルフは大人を子供にする」のは間違いない事実だと確信できる。ゴルフの特性は生涯楽しめることと誰とでも楽しめることだが、それを可能にしているのがゴルフの歴史と伝統である。

 

ゴルフの歴史は誰もが楽しめる大衆スポーツとして世界に普及し、伝統は全てのゴルファーに品格と正義を涵養してきた。歳とともに喜びや楽しみが無くなる年寄りがゴルフを通して魂を甦えらせ、歳とともに相手にしてくれない若者や孫とゴルフを通して品格と正義を学ぶ。欧米の老ゴルファーたちはゴルフによって自分達自身と子供や孫世代に生きる力を与えてきたのである。シルバータウンは高齢者が第三の人生を有意義に過ごすだけでなく、人生で培った実践技術や実践知識を体験学習を通して次世代へ伝承していくカルチャーセンターでもあるのだ。シルバータウンから次世代の松山英樹、石川遼、宮里藍が続々と誕生し世界に飛び立って行くことは目に見えている。

 

石松の活躍

田中将大が破格の契約金でヤンキースに入団した話題で持ちきりの先週、米国PGAツアーで石川遼、松山英樹の二人が上位入賞を果たした。石川はトップと二打差の7位タイ、松山は4打差の16位タイだった。日本の若者が世界のヒノキ舞台に進出して活躍する姿は見ていて頼もしく誇らしいものだが、活躍するだけでなくその言動も頼もしく誇らしい。既にイチロー、松井をはじめとする野球選手がサムライといわれるほど日本人らしく堂々と振舞うさまは天晴れとしか表現のしようがない。今後も記者会見に臨んで苦手な英語を無理に話す必要はないし、照れ隠しのお世辞笑いもいらないから、日本式に礼儀正しく挨拶して欲しい。「郷に入って郷に従え」ということと「日本人のアイデンティティを失わない」ということは相反することではないのだから。

現代はグローバル・ダイバーシティ(世界規模の多様性)を受け入れなければならないといわれるが、アメリカ大統領もその女性補佐官もPGAツアーの帝王も黒人である事実がそれを証明している。PGAツアーにはオリンピックのようにいろいろな国籍の選手が出場しているし、街でも多様な人種を見かける。国技館に行けば歴代優勝者の肖像画に日本人力士の姿はない。それなのに大学病院には外国人医師も看護士もいないし、裁判所には外国人裁判官も弁護士も見当たらない。学校でも外国人教師はめったに見ない。スーパーやコンビニには外国産食品がいっぱい並んでいるのに、ドラッグストアには外国製薬品がない。多様化が進んでいる分野とそうではない分野がはっきりしてきたが、今後ゴルフはどうなるのだろう。日本のゴルフ場に外国人ゴルファーが溢れ、日本ツアーで世界中のトッププレーヤーが競い合う時代が来るのだろうか。

多様性は画一性の反対概念だから、早い話が「何でもあり」の社会が始まることになるが、見方を変えれば混乱した社会でもあり混沌とした社会にもなる。そんな社会で自分の存在をはっきりさせることがアイデンティティの確立とすれば、ゴルフには長い歴史と伝統に支えられた固有の思想文化があるから、どこまで個性が受け入れられるか問題だ。石川も松山もゴルフという郷に入ってはゴルフの郷に従う必要があるが、その中で日本人らしいアイデンティティを何処まで発揮できるか楽しみだ。礼儀正しいことや真面目で正直なことは日本人の特徴だが、これはゴルフだけでなく世界中どんな社会でも通用する。日本人のアイデンティティは武士道精神ともいわれるが、この精神がゴルフの世界でも通用することを二人にも知って欲しい。アジアツアーが盛んになり石松時代が本格化した頃には、キリスト教徒だけでなくイスラム教徒やヒンズー教徒、仏教や儒教のゴルファーも出場するだろうが、そんな中で毅然とかつ燦然と輝く武士道石松の姿を見たいものだ。

 

石松時代の到来か

「両雄並び立たず」という言葉があるがライバル同士がお互いを切磋琢磨して両雄を大きく育てることがある。野球の王・長島、相撲の柏戸・大鵬、ゴルフの青木・尾崎、パーマーと二クラスがそうだ。いま石川遼と松山英樹がそんな関係になりつつある。年齢も同じだし、お互いが意識し尊敬し合っている。二人の関係は見ていてとても爽やかで微笑ましくもある。それでいてタイプも性格も正反対のように見える。石川は都会的で洗練された感じ、松山は野性的で無骨な感じが良い。石川が周囲に気を配り丁寧に受け応えしているのに対し、松山はマイペースで愛想がない。この二人は似たもの同士ではなく全く対照的だ。それぞれの個性を強力にかもし出しているにも拘らず、二人とも嫌味がない。それは演出されたり創作されたものではなく、生まれながらに備わったものが個性となって現れているからだろう。

日本の社会は共通性や画一性を大切にして成り立ってきた。社会全体が何処の切り口を見ても同じ顔かたちなので「金太郎飴」などといわれた。学校に通いだしたときから同じ服に同じ鞄、同じ教科書に同じ授業、違う服装をしたり違う教科書を開いていると先生に叱られた。人は顔かたちが違うように、性格も能力も関心もみんな違っているはずだが、みんな同じ教科を同じ時間づつ勉強させられていた。好き嫌いや得意不得意に関係なく皆同じ教育を受けて、その中で誰が一番平均点が高いかを競わされてきた。平均点の高い子を優等生といい低い子を劣等性という。同じ型にはめて教育するから画一教育ともいうが、いくらボールを遠く正確に飛ばそうがパットの名手だろうが、文部省の定めた教科の平均点が低ければ劣等性の烙印が押される。

石川や松山が優等生か劣等生か知らないが、そんなことに関係なく素晴しい若者を育ててくれた学校や両親に拍手を贈りたい。学校も家庭も金太郎飴を育てるのに戦々恐々としてきたが、できた金太郎飴はちょっと変な顔をしていると規格外とか出来損ないといって社会からはじかれてしまう。そもそも何で金太郎でなくちゃいけないのか、アンパンマンやタイガーウッズの顔じゃいけないのか、犬や猫じゃいけないのか。このようにひとつの顔ではなく、いろいろな顔を育てる教育を民主教育というはずだし、いろいろな顔を個性として受け入れる社会を民主主義というはずだ。政治経済・スポーツ芸能あらゆる社会に個性あるいろいろな顔が揃うと楽しいし、若者にとっても無限の可能性が秘められた社会が実現する。でも唯ひとつ必要な画一性として、エチケットルールを守る品性と感性を備えないと、たちまち堕落社会や無法社会に転落する。

 

大物ルーキー

大物ルーキーと言われる松山英樹が、プロ転向して早くも大物振りを発揮しているが、同じ歳の石川遼が米国ツアーで悪戦苦闘している姿と対照的だ。しかし石川遼もデビューした時には大物ぶりを発揮して世間をアッと言わせたものだが、その石川遼が世界に出て苦しむさまに、世界の壁の厚さを知って私たちの方が驚いている。ならば世界の壁はそんなに厚く、日本のゴルフ技術はそんなにレベルが低いのかと思いがちだが、私は断じてそんなことはないと信じる。
ゴルフは登山、スキー、マラソンなどと同じように気象条件や自然環境に対応しなければならないスポーツだから、環境が変われば技術だけでは勝てない。
そのうえゴルフは自然環境だけでなく、社会環境にも対応しなければならない厳しい側面を持っている。石川遼は日本PGAの閉鎖的封建社会の殻を破って頭角を現し、米国に渡って新たな社会環境に挑戦している。自由平等を国家理念とするアメリカ合衆国にあっても、白人プロテスタントが支配する米国PGAという社会環境は宗教色の強い差別社会でもある。かつてリー・トレビーノ、チチ・ロドリゲス、ロベルト・デビセンゾが、いまはビジェイ・シン、タイガー・ウッズ、アンヘル・カブレラらが目に見えない宗教や人種の壁と闘っていて、石川遼もそのひとりで、置かれた立場を思うとやはり「頑張れ!」と叫びたくなる。

 

慣れない自然環境に飛び込んだとき人の体は異常な反応を示すが、慣れない社会環境に飛び込んだときは、むしろ体より心の方が異常な反応を示してしまう。そのうえ人の体と心は微妙に連動しているので、異常反応が連鎖を起こして自分自身でもコントロール不能の状態に陥ってしまう。かつて多くの若者をアメリカゴルフ留学に送り出したが、SOSの連絡を受けて何度も救出に行った経験がある。「朝になると足が動かなくなって一歩も歩けない」とか「英語が分からないから買い物にも行けない」といって閉じこもっている。もっと進むと「もう日本には帰れないから自殺したい」と訴える。このような社会環境に対する反応は、その社会に順応するか無視しなければ耐えられない。有色人種が白人社会で生きるのも、無信仰者が異教徒社会で生きるのも、社会環境の違いは私たちが生きるうえで実に大きな壁だ。地方人が東京に来ても、東京人が地方に行っても、それぞれの社会環境の違いは大きな壁になる。その壁を乗り越えた人だけが異なる社会環境で生きていくことができるし活躍することもできる。ガラパゴス島といわれる日本もどんどんグローバル化して、いろいろな人種、国籍、宗教の異なる人々が住みはじめた。観察すると外国からガラパゴス島に来た人には住み心地が良い環境のようだが、ガラパゴス島から外国に行くとどうにも住み心地が悪いようだ。ガラパゴス島の住人は異質な社会環境に住めなくなってしまったようだが、世界で活躍しようとするなら、ガラパゴス島を飛び出してどんな社会環境にも順応できる体質を作らなくては駄目だ。実際に野球やサッカー、技術者や芸術家は、どんどんガラパゴス島を飛び出して活躍しているではないか。ただし、ガラパゴス島固有の甘ったれ精神は置いていかないと命取りになることだけは肝に銘じておかなければならない。代わりに世界に通用する武士道精神をまとって行くことを是非お勧めしたい。

 

では基本とは何か 2

松山英樹が太平洋マスターズに優勝し、石川遼が優勝の花道を出迎えた。暫らく明るいニュースに乏しかった日本の男子プロゴルフ界に、若者が爽やかな話題を提供してくれたが、日本のゴルフ界は稀に見るこの二人の逸材を大切に育てなければならない。ゴルフに限らずどんな世界でも逸材は存在し、若くして才能の片鱗を見せるものは多い。特に体力勝負のスポーツ界ではその傾向が強いが、なぜハタチを過ぎると唯の人になることが多いのか。低迷し続ける日本のゴルフ界は、この逸材を決して唯の人に終らせてはならないのだ。

 

「神童もハタチ過ぎれば唯の人」とはよく言われることだが、実例は周囲にいくらでもある。反対に「大器晩成」とも言われるが、いま男子プロゴルフ界はアラフォー世代に支えられている現実がある。ジャックニクラスがシニアツアー入りしたとき「私のゴルフはまだ進化していると思う」といった言葉を思い出すが、それは負け惜しみでもなく実感だったに違いない。二クラウスのあと帝王の座を継いだトム・ワトソンが、還暦を迎えた年に全英オープンでプレーオフになるまで優勝を争ったことは記憶に新しい。

 

ハタチ過ぎて成長が止まるのを「早熟現象」ともいうらしいが、肉体的な成長が止まることが原因か、精神的に成長し始めることが原因か良く分からない。
両方が原因になっているとも思えるが、両方が原因になっているとすれば肉体と精神の成長は二律背反してしまう。それではスポーツ選手の人間的な成長はありえないことになってしまうから、この考えは間違っている。人間的な成長は艱難辛苦という人生トレーニングを受けないと得られないと言われるが、早熟現象が起きる人はハタチまでに大成してしまい、人生トレーニングを受ける機会を失ってしまったことが原因なのだろうか。

 

確かにタイガー・ウッズは尊敬する父親の保護を失ったら、厳しい人生トレーニングに耐えられず人生そのものを破綻させてしまった。反対に横峰さくらは父親の手を振り払って自ら人生トレーニングに飛び込んだら、どんどん成長し始めた。ゴルフが人生ゲームに例えられるだけに、この二人は対照的な存在だ。石川遼も松山英樹もこれから人生トレーニングが始ることになるが「では基本とは何か」という課題が生まれる。松山英樹は東北の人に励まされてマスターズに出場しようと決意したそうだが、最初の人生トレーニングとして最高の基本プログラムを与えられたのではないだろうか。見ていて成長を感じる。

 

では基本とは何か

「基本とは何か」と聞かれて的確に答えられる人は少ないだろう。いや世の中に一人もいないと言うべきかも知れない。「秘訣は基本の反復練習」というものの基本が必ず成功を保証する訳ではない。成功者が振り返って無駄な努力を取り除いた後に残ったものが基本といわれるもので、だったらその基本だけを繰り返していたら、もっと早く成功したかといえばその保証もない。なぜならば成功者は成功より失敗から多くを学んでいるからである。成功者の経歴は失敗の経歴といった方が早いほど多くの失敗を積み重ねてきている。言い変えれば成功者は多くの失敗を乗り越えたから成功したと言える。

 

失敗の積み重ねの量でいえば、私たちのゴルフは充分に成功者の条件を備えているかもしれない。しかし成功者になれないのは失敗から多くを学んでいないからである。ゴルフの達人は目の覚めるようなショットなどめったにしない。しかし目を覆うような失敗もめったにしない。私たちのゴルフは時々目の覚めるようなショットもするが、それ以上に己の目を覆いたくなるようなミスショットを繰り返す。ミスショットデパートみたいな人を見かけることがあるが、そういう人に限って常に目の覚めるようなショットを夢見ているようだ。

 

よくゴルフは「ミスゲーム」ともいわれる。そして頻繁に「ナイスミス」や「結果オーライ」がうまれる。私たち凡ゴルファーは、時たま生まれる目の覚めるようなショットを「実力」と思い、目を覆いたくなるミスショットを「偶然」と思いたい。本当は逆で目の覚めるようなショットが「偶然」で、目を覆いたくなるミスショットが「実力」なのだ。だからゴルフは止められない訳で、素直に自分の実力を認めたら、もうとっくの昔に多くの人がゴルフを止めている。
『己を知らず、敵も知らざれば百戦これ危うし;孫子兵法』ということになるが、こういう危ういゴルファーに支えられてゴルフ界は成り立っている。

 

石川遼が非凡なのは、いつも試合後のインタビューに答えてミスショットや失敗の原因を冷静に語り、反省して出直しを誓う点にある。常に失敗から学ぼうとする姿勢こそ成功者の条件であるなら、彼はまだまだ進化する可能性を秘めている。彼はワールドツアーに出場して屈辱的な敗北や失敗を重ねてきたが、それらの失敗からどれだけ多くを学んだか今後が見物だ。そうなると基本とは失敗から多くを学んで原因を究明し、同じ失敗を繰り返さないよう深く反省することといえる。「他人の不幸は私の幸せ」という言葉もあるが、本当のところ他人のミスショットは実に楽しい。だったら我ら凡ゴルファーは人を喜ばせる秘訣を先天的に心得ている天才と言えるのではないか。

 

新帝王誕生か

ボロボロの帝王タイガー・ウッズが欠場するUSオープンで世界中のゴルフファンがアッと驚いた。北アイルランド出身の弱冠22歳ローリー・マキロイがタイガー・ウッズの12アンダー優勝記録を更新して16アンダーで優勝したのだ。12アンダーですら当分破られることはないだろうと言われていたのが、16アンダーとは誰もが恐れ入った。全米プロやUSオープンは毎年コースレート委員や運営委員によって最高難度に設定されるから、出場選手は誰もがパープレーを基準にコースマネジメントしている。だから一番ビックリしたのはコース設定した委員たちだったろう。

 

北アイルランドが何処にあるか、すぐ説明できる人はそうたくさんいないかもしれない。まして北アルランドの国旗を見て英国の一部だと分かる人はもっと少ないはずだ。英国国旗といえば赤青白の米印みたいなユニオンジャックを思い出すが、ゴルフトーナメントにユニオンジャックの旗はなく、なぜか王国旗を掲げて出場する。ゴルフ発祥地スコットランドの国旗は青地に白のバツ十字、イングランドの国旗は白地に赤の十字架、北アイルランドは赤の十字架に王冠、ウェールズは白緑地に赤い竜。四つ足してユニオンジャックになるはずが、なぜか合わせるとウェールズが消えてしまう。いろいろ事情はあるようだ。

 

宗教改革以来、アイルランドはカソリックとプロテスタントの抗争が絶えないようだが、英国領となった北アイルランドは本国アイルランドと英国の板ばさみとなって確執や労苦が絶えないのではないか。私たちには分からないが思想や地勢上の問題は話し合って解決する問題ではない。昨年の覇者マクダウェルも今回のマキロイも言葉で表現できない思い十字架を背負って出場していたに違いない。その重荷をバネに爆発したとするなら、私たちは彼らを心から尊敬し賞賛するだろう。

 

私たちも今、大震災津波に放射能被爆という重荷を背負っている。聖書に「試練は忍耐を生み、忍耐は練られた品性を生み、品性は希望に変えられる」とあるように、北アイルランドの人々が十字架の重荷からマクダウェルやマキロイという希望を見出したなら、私たちも天災の重荷から石川遼や松山英樹という希望を見出したいものだ。二人が国際舞台の希望の星になるためには、もっともっと世界を体験し勉強しなければならない。ゴルフの競技年齢を考えれば未だ20年以上もある。七難八苦を天に願って、練られた品性を生むのが先決だ。日本よりうんと小国の北アイルランド、韓国、南アフリカを思えば確率的には断然有利なはずなのだから。

 

日本の実力

今週から始った世界マッチプレー選手権に日本のトップスリーが挑戦して、三人とも初日一回戦で敗退してしまった。トップスリーとは池田勇太、石川遼、藤田寛之を指す。先週リビエラで開催された「ノーザントラスト」でも池田勇太一人がかろうじて予選通過したものの、石川遼、今田竜二の二人は予選落ちしている。この試合は日本人オーナーのリビエラC.C.で開催されたが、日本人選手三人が予選二日間を同じ組で回るという世にも珍しい光景が観られた。普通なら国際試合で同じ国の選手だけで競技することはありえないが、なぜこういうことになったのか理解に苦しむ。大相撲で八百長試合がとり沙汰されているときだけに、日本選手が勝っても負けても後味の悪い思いが残るはずだ。

 

日本のゴルフ界はもう20年以上も鎖国体制をとっているから、外国と大きなカルチャーギャップが生まれてしまった。何も知らずに日本に生まれ育った若者たちは、祖国の誇りを日の丸に託して武者震いしても、想いと現実が余りにも違いすぎて悲劇を繰り返すことになる。先週封切になった『太平洋の奇跡』を観ても、若き日本兵の祖国を想う愛国心や忠誠心と、権力の中枢にある指導者たちとの間にあるギャップは、悲哀を超えて歴史の悲劇としか表現のしようがない。指導者の無知と無責任を全て若者の肩に背負わせ、大和魂だけで突撃させても玉砕の悲劇を繰り返すだけである。日本兵が如何に勇猛果敢であったかは歴史の事実が証明している。権力の中枢にグローバルな視野があれば、日本の若者はもっともっと活躍するに違いない。

 

それに引き換え韓国人プロは国際舞台で目覚しい活躍をしているが、彼らの祖国は国家存亡の危機にあって、国境に異変が起これば祖国に舞い戻り、クラブを捨てて銃を取るか、家族を連れて国外逃亡を図らなければならない。今を失えば明日はないかもしれないという切実な思いが、試合に取り組む姿勢やプレーの姿に表れている。逆境に育った彼らの強さの秘密は何か是非とも知りたいところだが、聞くところによれば彼らの大多数はクリスチャンだそうだ。祖国愛や自己実現という偏狭な価値感ではなく、人類愛や平和実現という遠大な価値感に支配されているとすれば、グローバル化する現代を悠然と生きる姿勢は当然とも思える。

 

日本の若きサムライ達に伝えたい。軽薄な商業娯楽主義に毒されたり、偏狭な鎖国体制の殻に閉じこもることなく、勇猛果敢に世界に羽ばたいて欲しい。
ただし、大和魂や武士道精神で武装することを忘れてはならない。そうすれば、やがて日本の若サムライ達が世界各地で勝利の勝鬨を挙げることは目に見える。

 

天の采配

2010年度トーナメントシリーズが終了した。終ってみればそういうことかと思うことも、結末を見るまでは実にはらはらする。だから闘うものも観戦するものもエキサイトするし興行としても成り立つわけだ。最初から結果が分かっていれば、誰もお金や時間を使って観戦などしない。かくいう私だって今年度の賞金王は誰になるのか、水曜日からそわそわしていたことは否定できない。
そしてほとんどの人が石川遼か池田勇太のどちらかが優勝して今年度賞金王に輝く構図を画いていたのではないか。石川遼の連覇に期待しながらも、進境著しい池田勇太の優勝もありうる。勇太自身、相当意識して優勝宣言に近い発言をしていたから、なおさら多くの人が二人の優勝争いを予想していたはずだ。

 

天(神)の計画は大方の見方と異なり、最終戦優勝争いはアラフォー藤田寛之と谷口徹の一騎打ち。賞金王は韓国選手キム・キョンテに決定した。戦前の予想と異なり石川遼と池田勇太の名はなかった。最終戦は20歳前後の若手ホープ同士の一騎打ちに期待が寄せられたが、40過ぎのオヤジ同士の一騎打ちとなりました。藤田の優勝スピーチが印象的だ。「同世代に自信と勇気を与えられたら嬉しい」とは謙虚にして切実な言葉である。40代というのは社会的責任が重くのしかかる割に社会から軽くみられ、上からも下からもプレッシャーをかけられる辛い世代なのだ。私も過去の経験上、藤田の言葉が身にしみて分かる。

 

世の中はいつも矛盾に満ちていて、世界的景気低迷の中で20歳前後は就職難と失業に苦しんでいるし、40歳前後はバブル後遺症の責任だけを一身に背負わされている。石川遼や池田勇太の同級生たちは浪人となって最低賃金確保のため、足を棒にして毎日就職活動をしているだろう。藤田寛之や谷口徹の同級生たちは組織の中間管理者として、また一家の柱として身も心もすり減らして日夜働いているに違いない。これはトーナメントプロと一般社会人のどちらが楽な仕事かという比較の問題ではない。人生の選択の問題だから全て本人の取組姿勢に掛かっていて、結果責任は自分で負わなければならない点は同じだ。

 

韓国プロの成長は著しく、男女とも日本の賞金王を射とめた。彼らの日常姿勢からこの結果は予想できたが、現実を前に改めて考えさせられる。南北国境間にある一触即発の緊張感に包まれた日常生活は、いつ戦陣戦乱の渦に巻き込まれるか分からない。トーナメントに出場している今は二度と訪れないかもしれないし、来年はないかもしれない。韓国プロによる賞金王男女制覇の快挙に神の意思や天の采配を感じて厳粛な気持ちになったのは私一人ではないはずだ。心底から「おめでとう。今を大切に!」と祝福したい。

 

池田勇太のスイング

池田勇太が強くなってきた。強くなったばかりかアンちゃん風だった勇太に王者の風格が出てきた。人が地位をつくるのか、地位が人をつくるのか分からないがとにかく成長した。テレビに映る姿を見て日に日に惹かれていく。あの独特なスイングも魅力的に見えてくるだろう。

 

池田勇太のスイングは何処で身につけたか知らないが、米国ではジム・ヒューリック、日本では青木功と同系統である。かつて河野高明や草壁政治が採用していた通称「逆八スイング」といわれるスイング系統である。ビギナーやアベレージゴルファーにはインサイドに引いてアウトサイドに下ろしてくる「八の字スイング」が多いが、これは後ろからスイングプレーンを見ると八の字を描いているように見えるため、このように名付けられた経緯がある。これとは反対に「逆八スイング」はストレートに引いてインサイドに下ろしてくるから八の字が反対に描かれて逆八という訳だ。

 

30年ほど前、青木功が世界的プレーヤーになりだした頃、米国コロンビアカントリークラブのコーチで全米第一人者といわれたビル・ストラスバーグが「青木功こそ理想のスイング」と絶賛した。当時NGFアメリカセミナーの主任講師だったビルを日本にも招聘して東京・京都・大阪でセミナーを開いたが、200人以上受講して誰もこのスイングをマスターできなかった。ビルの言葉を借りれば「クラブを真直ぐ上げて、右脇を絞めるように引き下ろし、また上げる」と簡単にいうのだが、誰も巧くできなかった。セミナーに集まったトッププレーヤーたちはビルの講義を聴きスイングを見て「玄人芸」と絶賛したのだが。

 

ということは青木功も池田勇太も黒光りした玄人芸なのである。人知れず数限りない球を打ち続け、百戦練磨して磨き上げた達人名人のワザである。素人が簡単に盗んだり真似のできる芸ではない。恐らく本人も自分の技を伝えられるとは思っていないはずだ。「名選手必ずしも名コーチならず」の例えどおり、絶対といってよいほど名人芸は伝授できるものではない。子供は器用だから結構上手にスイングを真似するだろうが、経験や体験は最終的に真似したりバーチャルトレーニングによって身に付くものではない。

 

基本とは名人や達人に共通する原則を導き出し、その中から誰でも真似のできる普遍技術を体系的に整理したものである。だから基本はつまらなく退屈である。こんなこと猿でも真似できると思うことばかりだ。その基本をタイガー・ウッズも石川遼も毎日コツコツ練習しているという。これはまさに凄業だ。