グローバル時代の民族意識

私は日本が総力を挙げ「鬼畜米英」を唱えて欧米先進諸国と戦争していた昭和17年に生まれ、母や姉の膝で大和魂を吹き込まれて育った。中学生の頃は軍国少年で戦闘機乗りに憧れていた。学生時代は学園内に反米思想が渦巻き「ベトナム戦争反対」「日米安保条約反対」「ヤンキーゴーホーム」のシュプレヒコールが飛び交う中で過ごした。ベトナム戦争にはベトコン側に志願しようと真剣に考えたこともあった。ところがその私は米国や英国を鬼畜と思ったことなど一度もないばかりか、子供の頃から憧れの国であり米国留学は夢でもあった。今ではゴルフの伝統思想国として尊敬し崇拝もしている。米国ゴルフ界の人とは公私ともども刎頚の交わりをしているし、口約束だけでビジネスができるほど強い絆で結ばれている。

2年半前に北京を訪れたとき、多くの若者から震災見舞いを受け「憧れの日本に行きたいが放射能は大丈夫か」と真顔で質問された。彼らの何処に反日思想があるのか訝しく思って訊ねると「教科書にそんなこと書いてあったかな」と笑い「震災を知って中国が一番に救援物資を送ったんだよ」と満足げに語った。マスコミ報道とは何なのか、そこで創られる世論とは何なのか、権力や為政者の思惑と庶民感情にこれほど温度差があるものかと思ったが、マスコミ報道に踊らされて鬼畜米英を叫ぶのも反日運動に走るのも、その行動原理は同じでも現実の庶民感情とは大分異なるようだ。

ところがインターネットの世界を覗くとマスコミと大分違う情報が流れていて、マスコミ情報とネット情報はこんなに違うのかと驚くが、テレビ新聞しか見ない人とネットしか見ない人とは、随分違う意見や考えを持っているだろうなと思う。では両方見ている人はどうなるんだろう。恐らく頭がおかしくなるか無関心にならざるを得ないだろうと思う。選挙のたびに40%の無関心層が話題になるが、案外この無関心層こそ的確な情報の持ち主かと思うと空恐ろしい気がする。情報社会とか情報革命とかいうが、エジプトやタイで起きている反政府運動が、もしマスコミ情報派とネット情報派の対立だとすると、同じことが日本でも起こりうることになる。

スポーツの世界では平成生まれの若者が日の丸付けてどんどん世界に飛び出して行く。反対に世界の若者が日本の先進技術や知識を求めて国籍人種を超えてどんどん押し寄せてくる。若者はネット情報派だからネットで世界情勢を学びグローバルスタンダードで判断行動する。今やいたる処で世界中の人々が世界各地の民族文化や歴史を楽しんでいるが、そこに国家だの国籍だの人種だのという既成概念を持ち込むのはナンセンスだ。そうすると民族意識や民族対立って何なんだ。オリンピックが国別対抗戦なのは何故なのだ。ウーム・・・。

 

イチローの偉業

イチローが4000本安打を放ち、ピート・ローズ、タイ・カップに続く歴代3位の記録を達成した。インターネットや新聞にいろいろな情報が載ったが、本人が話した「4000本の裏に8000回以上の悔しさがあるんです」という言葉にズシリと重いものを感じた。イチローの平均打率は3割3分だから、確かに8000打席以上は凡打に終わったことになる。イチローはその凡打に終わった一打一打が本当に悔しかったのだろう。ピッチャーに対して4000勝8000敗だからバッターとしては大幅に負け越した思いが強いのかもしれない。勝負師は勝利より敗北から多くを学んでいるといわれるが、その学び方も半端じゃないのだろう。
イチローの経歴を見るとプロになって一年目は安打24本、二年目は12本と今となっては想像も付かない貧打振りだが、普通なら三年目に姿を消していてもおかしくない成績だ。ところが三年目に210本放って日本新記録を達成しているから、並の選手ではないことを実績で証明している。

 

私たち凡ゴルファーはイチローから爪の垢ほどでも学ぶことはないだろうか。イチローほどのプレーヤーですらナイスショットの確立が33%に過ぎないのに、私たち凡ゴルファーが毎回ベストショットを放とうとして力み、凡打に終わったといってクラブを叩きつけて悔しがっているのは名プレーヤーの証?。いやいやそうではありません。イチローは1試合に4,5打席しかないが、凡ゴルファーには90打席もあるのだ。そのくせイチローのような内野安打やバントヒット、ポテンヒットになろうものなら跳びあがって悔しがる。悔しがることではイチローに負けていないようだが何が違うのだろうか。そう、悔しがっているだけで反省がない。そこが根本的に違うようだ。何を反省しているのか教えて欲しいが、教えてもらったとしても実行できなければ同じことか。

 

私たち凡ゴルファーは試合が終わって反省する前に、全打席全ショットを思い出さない、イヤ思い出せない。さらに悪いことにナイスショットは実力と思いこみ、ミスショットは不幸か不可抗力と思いこむ。だから反省がない。反省がないから帰ってきて練習をしない。次の試合に向けてトレーニングをつまないから同じ凡打を繰り返す。そんなことを10年、20年と繰り返すうちに肉体的な衰えを感じ「何かいいクラブないかな」と考え試打会を渡り歩くようになる。それでも日本のゴルフ産業は私たち「懲りない凡ゴルファー」に支えられて辛うじて命脈を保っているのが現状だ。イチローが加齢とどう対決していくのか見ものだが、真似はできなくとも姿勢だけでも見習う必要がある。それは自分の加齢対策やゴルフ産業復活のためだけではなく、日本の将来にとって重要な課題だからである。

 

65歳以上の人口が3000万人を超えたそうで、そのうち2000万人以上が健康老人で老後の生甲斐を求めているという。このうち何割かがイチローの姿勢だけでも見習って、練習やトレーニングに励み自分の目標に向かって情熱を燃やすようになったら、やがて病院や養老院は閑散とし練習場やコースは満員になるだろう。病院や養老院がつぶれて練習場が建設され、休耕農家や生産緑地が消滅してコースが建設される時代が来たらどうしよう。心配するに及ばない。それこそ本当の高齢福祉社会が実現するのだから。そこにはきっとエージシュートをめざして日々トレーニングを重ねるイチローの姿があるに違いない。

 

eラーニングの時代

ゴルフがeラーニングで学べるなんて夢にも思わなかった。40年前、ゴルフ教室を始めようと思って芝ゴルフ教室や陳清波モダンゴルフ教室を訪ねた頃、ゴルフに基本も教則本もないと言われてびっくり仰天したのがウソのようだ。誰に聞いても「ゴルフが巧くなりたければダンプ一杯ボールを打て」と言われ、「尾崎も野球からゴルフに転向しようと毎日1000球のボールを打っている」とも言われた。「習うより慣れろ」「教わるより盗め」「体で覚えろ」と、訊ねたプロ全員が口をそろえて言う。さらに「巧くなる秘訣なんかない」とも言い、「もしあったらオレはこんな所でレッスンなんかしてない」とも断言した。その言葉には妙な迫力があった。これらの言葉を裏付けるようにPGAレッスン部長の森田吉平プロは、「素振り10万回」を提唱して富士に森田道場を開いていた。

 

だが待てよ。ひょっとすると今でもゴルフはそうやって巧くなるものだと思っている人が意外に多いかもしれない。それが証拠に「飛球法則」「スイング原則」「生体原理」「スイングメカニズム」など基本の話を始めると、キャリアがある人ほどびっくりするより「ゴルフは理屈じゃない」という顔をするのだ。追い討ちをかけて「もう一度基本からやり直してみませんか」というと、「いまさら」といって手を横に振る。そういう人に限ってリヤカー一杯ほどもゴルフの雑誌や本を読んでいる。今さらという言葉の裏には「ゴルフなんて、いくら習ったり本を読んても巧くならない」という確信が満ち溢れているからだろう。さらに追い討ちをかけて「あなたのゴルフは所詮ザル碁かヘボ将棋なんでしょ?」というと、「なにをコノ野郎!」という顔をしてやっと真顔になってくれる。

 

実はゴルフ王国アメリカでも、40年前には同じようなことを言い合っていた。既にベン・ホーガン『Five Lessons』などの名著が出版されていたものの、いくらベン・ホーガンのスイングを詳しく解説されても、所詮ホーガンの真似などできる訳がない。その証拠にホーガン二世もホーガン再来も聞いたことがない。名手やプロのスイングを真似するのではなく、スイング原則に従ってマイスイングを形成しスクウェアシステムから9種弾道を自在に打ち分けたり、技術の基本パターンを修得する学習法開発は、40年前にNGFの手によって進められていた。学校授業にゴルフを導入するためには、学習能力や身体能力に係わりなく、誰もがSimple & Easyに習得できるものでなければならなかったのだ。

 

米国豪州カナダのプロや上級者達は、申し合わせたように基本が大切だという。
それは彼ら自身が基本を学ぶことによって、最短距離で現在の技量に到達したことが解っているからに違いない。その基本は言葉で伝わり文字で理解し視覚で納得できるものでなければならない。eラーニングとは三次元(3D)で学べることだから、それが好きな時に好きな所で手元のタブレットやスマートフォンで学べるのだから、まさに夢が現実になったということだ。

 

大物ルーキー

大物ルーキーと言われる松山英樹が、プロ転向して早くも大物振りを発揮しているが、同じ歳の石川遼が米国ツアーで悪戦苦闘している姿と対照的だ。しかし石川遼もデビューした時には大物ぶりを発揮して世間をアッと言わせたものだが、その石川遼が世界に出て苦しむさまに、世界の壁の厚さを知って私たちの方が驚いている。ならば世界の壁はそんなに厚く、日本のゴルフ技術はそんなにレベルが低いのかと思いがちだが、私は断じてそんなことはないと信じる。
ゴルフは登山、スキー、マラソンなどと同じように気象条件や自然環境に対応しなければならないスポーツだから、環境が変われば技術だけでは勝てない。
そのうえゴルフは自然環境だけでなく、社会環境にも対応しなければならない厳しい側面を持っている。石川遼は日本PGAの閉鎖的封建社会の殻を破って頭角を現し、米国に渡って新たな社会環境に挑戦している。自由平等を国家理念とするアメリカ合衆国にあっても、白人プロテスタントが支配する米国PGAという社会環境は宗教色の強い差別社会でもある。かつてリー・トレビーノ、チチ・ロドリゲス、ロベルト・デビセンゾが、いまはビジェイ・シン、タイガー・ウッズ、アンヘル・カブレラらが目に見えない宗教や人種の壁と闘っていて、石川遼もそのひとりで、置かれた立場を思うとやはり「頑張れ!」と叫びたくなる。

 

慣れない自然環境に飛び込んだとき人の体は異常な反応を示すが、慣れない社会環境に飛び込んだときは、むしろ体より心の方が異常な反応を示してしまう。そのうえ人の体と心は微妙に連動しているので、異常反応が連鎖を起こして自分自身でもコントロール不能の状態に陥ってしまう。かつて多くの若者をアメリカゴルフ留学に送り出したが、SOSの連絡を受けて何度も救出に行った経験がある。「朝になると足が動かなくなって一歩も歩けない」とか「英語が分からないから買い物にも行けない」といって閉じこもっている。もっと進むと「もう日本には帰れないから自殺したい」と訴える。このような社会環境に対する反応は、その社会に順応するか無視しなければ耐えられない。有色人種が白人社会で生きるのも、無信仰者が異教徒社会で生きるのも、社会環境の違いは私たちが生きるうえで実に大きな壁だ。地方人が東京に来ても、東京人が地方に行っても、それぞれの社会環境の違いは大きな壁になる。その壁を乗り越えた人だけが異なる社会環境で生きていくことができるし活躍することもできる。ガラパゴス島といわれる日本もどんどんグローバル化して、いろいろな人種、国籍、宗教の異なる人々が住みはじめた。観察すると外国からガラパゴス島に来た人には住み心地が良い環境のようだが、ガラパゴス島から外国に行くとどうにも住み心地が悪いようだ。ガラパゴス島の住人は異質な社会環境に住めなくなってしまったようだが、世界で活躍しようとするなら、ガラパゴス島を飛び出してどんな社会環境にも順応できる体質を作らなくては駄目だ。実際に野球やサッカー、技術者や芸術家は、どんどんガラパゴス島を飛び出して活躍しているではないか。ただし、ガラパゴス島固有の甘ったれ精神は置いていかないと命取りになることだけは肝に銘じておかなければならない。代わりに世界に通用する武士道精神をまとって行くことを是非お勧めしたい。

 

ワンスイングの重さ

自分のスイングに確信を持っている人はどれくらいいるだろうか。良い悪いに関係なく毎回同じスイングでショットできる人は、ワンスイングを身に付けていることになる。ワンスイングとはその人の一定スイングを意味するから、どんなにカッコ悪くても毎回正確に反復されていればワンスイングである。その人固有のものだからスタイルといってもよいが、遠くから見ても「○○さんだ」と分かるほど個性的である。プロだって藤田と谷口、石川と松山では全然違う。好き嫌いは自由だが、誰が良くて誰が悪いとはいえない。いかにコンスタントに一定かということが大切であって、毎回「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤していれば、プロだってスイングどころかスコアもメチャクチャになってしまう。自分のワンスイングを確立することが現代ゴルフの基本とされる。

 

情報社会に生きる私たちは有り余る情報に振り回されて、自分にとって必要な情報は何か、最適情報は何か判別できずに混乱していることが多い。さらに知らなくて良いことを知り、知らなければならないことを知らないという不幸にも陥り易い。ひょっとすると週刊誌やレッスン書を山のように読んでいながら「ワンスイングってなに?」という人がいるかもしれない。週刊誌を読んで毎週スイングを変えている人がいるとも聞く。それが楽しみだと言われればそれまでだが、巧くなりたいし競技にも出場したいという望みを持っているなら、即刻考えを改めなければ無駄な努力を重ねることになるだろう。現代ゴルフの真髄は正確な反復再現性にあるといえるからだ。

 

今では名前さえ知らない人が多いが、往年の米国プロを代表するジャック・ニクラウスと日本プロを代表する杉原輝男は、見た目に全く違うスタイルのスイングをしていた。しかし振り子原理に基づくスイングメカニズムや基本原則は全く同じである。正確な反復再現性という点では、彼らの右に出る者はきわめて少ない。二人のスイングはドライバーからパターまで同じスイングなのである。ワンスイングの概念が確立する以前から彼らは実践していたことになるが、名人や達人は自ら経験を通して科学的合理性に到達している点が凄い。ニクラスのスイングを真似しようとした人は多いが、杉原のスイングを真似しようとした人は少ないはずだ。どちらのスイングが好きかと言ったら多くの人がニクラスと答えるだろうが、どちらのスイングが正確な反復再現性を有していたかと言ったら杉原と答えるべきかもしれない。杉原は誰の指導も受けず一人で黙々と正確な反復再現性を追求したプロであり、凡人には真似のできない練習量によって辿り着いた結果のワンスイングだからである。

 

ワンスイング・スクウェアシステム

こんな言葉を聞いたこともない人が多いかもしれないが、現代ゴルフスイングの真髄といっても良い。英語で<One-swing Square-system>と書くが、私自身も詳しく解説した文献を見たことがないし、米国のトップコーチから詳しく説明を受けたこともない。ひょっとすると未だ誰も定義付けしていないかもしれない。普段使っている言葉も余りに日常的だと、本来の意味を忘れてしまうことがある。「真剣になる」という言葉だって日常頻繁に使うが、本来は竹刀や木刀を捨てて本物の刀を抜くことだから、それこそ命懸けになることだ。私も子供の頃、友人宅の床の間に飾ってある日本刀を抜いて目の前に付きつけられたことがあるが、全身鳥肌が立って、まさに腰が抜ける思いを味わった。そのとき以来、真剣の意味を正確に理解した気がする。

 

「ワンスイング」とは「ひとつのスイング」「一定のスイング」という意味で、1970年代までは使うクラブ毎に、打ち分ける弾道毎にスイングを変えるものとされていた。ところが1976年、ゲーリー・ワイレン博士がPGAマガジンに「ボールフライトロウ」を発表し、弾道とスイングには直接因果関係がないことを立証してからワンスイングの概念が確立した。ゴルファーにとってドライバーからウェッジまで同じスイングで打つことは永遠の理想だったために、トッププレーヤーたちは競って「ボールフライトロウ」を学び実践しようと試みた。日本で最初にワンスイングを披露して見せたのは、私の知る限りジャック・ニクラウスである。NHK特別番組でニクラスはドライバーとピッチングウェッジを全く同じスイングで打ち、二重映像でダブらせて変わらないことを証明して見せた。

 

またサンディエゴで開催されたNGFインストラクターセミナーに特別講師として招かれたマニエル・デ・ラトーレが、クリーク(5番ウッド)を使って全く同じスイングから9種弾道を自在に打ち分けるデモンストレーションを披露した。至難の業とされたハイドローもロウフェードも、ボールフライトロウを説明しながら自由自在に打ち分ける姿に、私はじめ日本人参加者全員が仰天するどころか、まさに腰が抜けるような思いを味わった。米国では1970年代にワンスイングが確立したことをまざまざと見せ付けられたのである。その時まだ私は「ボールフライトロウ」がワンスイングを確立したことを理解していなかったが、今思えば真髄を理解するのも時間がかかるものだ。現代ではワンスイングは余りにも当たり前で「なに?」とか「なぜ?」って聞かれると「えっ?」と思う人が多いかもしれない。それだけ無視されているのかもしれないが、それが真髄であることを改めて考え直す必要がありそうだ。

 

基本と教育

「基本が大切」と誰もが言う。「では基本は何か」と言うと誰もが口ごもる。
なぜなのか。基本を学んだ経験がないからである。昔は「読み書きそろばん」が教育の基本とされていたが「読み」とは世界の古典を読んで道理を理解すること。「書き」とは思考を文章で表現すること。「そろばん」とは物事を数値で把握することだったようだ。ゴルフで言えば「読み」とは先人の名著や基本テキストを読んでゴルフの原理原則を理解することであり、「書き」とは自分のスイングやプレースタイルで確立することであり、「そろばん」とはスコアデータによってゴルフを進化させることだろう。

 

基本は先人達の努力や研究の集積だから、私たちの浅い知識や経験の遠く及ぶところではない。三ヶ月で学べることが二年も三年もかかり、三年で習得できることが一生かけても叶わない。だから教育環境のない社会で育った人の人生は損をする。震災後、日本人が世界で再評価されるようになったのは、日本には早くから教育環境が整っていたからに違いない。特に明治維新によって四民平等に「読み書きそろばん」が学べるようになって、私たち庶民に至るまで、欧米列強諸国の人やホワイトアングロサクソン民族といつでもスクラッチ勝負できるまでに教育されたお陰だろう。

 

それなのに日本のゴルフに限ってなぜ教育環境が整わなかったのか、私にはどうしても理解も納得もできない。今年になってようやくNPO法人日本ゴルフ大学校が認可されたが、法人格という箱ができただけでまだ中身はない。中身を詰めるのに少し時間がかかるだろうが、この箱は大切にして今度こそ本物の中身を詰めなければいけないと思う。中身に賞味期限切れや腐りかけの物が入っていれば、中身全体が腐ってしまう。ところが、古典や基本は決して賞味期限切れでも腐りかけではなく、どんなに時代が変わっても人の骨肉を構成する基礎養分であることに変わりない。目新しいもの、高度なものが私たちを成長させてくれる訳ではなく、現代病や成人病の原因になる場合だってある。

 

日本のゴルフ界は低迷し続けている。全国津々浦々にゴルフの「読み書きそろばん」が学べるゴルフ塾ができるには、どれくらい時間がかかるだろうか。日本という国では物事がなかなか動こうとしないが、一端動き出したら速いともいわれる。明治維新も戦後復興もそうだった。震災復興もそうあって欲しいが、案外とゴルフの復興も東北から火の手が上がるかもしれない。礼儀正しく堂々とした武士道ゴルフやサムライゴルファーという姿で。

 

基本の定義と意義

基本を定め定義付けるには多くの時間と労力を要した。1960年代に米国NGFが全米の学校体育授業にゴルフを導入するに当たって、多くの優れた高校大学ゴルフコーチやLPGAのベテランプロが教育コンサルタントとして集められプロジェクトチームが組織されている。この時代はベン・ホーガン、バイロン・ネルソン、サム・スニードからアーノルド・パーマー、ジャック・ニクラウス、ゲーリー・プレーヤーに主役が移ろうとしていたときである。その時代のトッププレーヤーたちから普遍の共通点を見出し、基本を定義づけることが如何に困難なことだったか想像してみれば分かる。

 

例えば近代スイングの原形と言われる前の三人は、いずれも非の打ち所のない完璧とも思えるスイングの持主だったが、ホーガンはフェードボール、ネルソンはストレートボール、スニードはドローボールを持ち球としていた。後の三人は米国の黄金時代を築いたが、三人のスイングは個性あふれるものであったが共通点は見出しにくい。帰納法によって共通点を見出し、テイラーの科学的管理法にしたがって共通点を分析することは、そう簡単なことではなかったはずだ。それだけにゲーリー・ワイレンがオレゴン大学で『法則原理選択の理論』を書いて博士号を取得したのは大変に意義深い。

 

同時代の日本のトッププレーヤーとして杉原輝男、青木功、尾崎将司の三人を上げることができるが、この三人のスイングから共通点を見出すことは至難の業である。名を上げた内外のトッププレーヤー達は、いずれも個性的スイングとして完成しているからこそ、時代のトッププレーヤーとして一世を風靡していた訳で、常識的には他のプレーヤーと共通点などあろうはずがなかった。他のプレーヤーの多くは、トッププレーヤーの個性を秘訣と思って必死に盗み取ろうとしていた訳だから、誰もが共通点など見向きもしなかったはずだ。

 

このような時代背景の中で基本の探求は進められている。基本とは名人達人の業でありながら、万人に対して普遍的に適応できる技術でなければならない。万人とは年齢性別能力において千差万別を言い、普遍的とは誰に対しても適応できることを言う。だから基本とは初心者に対してだけではなく、名人達人に対しても基本でなければならない。基本をおろそかにする者は決して名人達人の域に達することはないし、名人達人と言えども基本をおろそかにする者はやがて凡人に舞い戻り、決して元の名人達人に戻ることはできないと言われている。タイガー・ウッズほどのプレーヤーと言えどもこの原則から逃れられない。

 

では基本とは何か 3

基本は昔からあったわけではない。永年にわたりゴルフに基本はないと言われ続けてきた。理由は簡単で、1970年代まではクラブが手作りの手工芸品でだったためにスペックがバラバラで、クラブ毎にスイングを変えなければならなかったからである。ほとんどの人が親か先輩に譲ってもらったクラブを後生大事に使っていたから、そのクラブに慣れるまで練習場に通ってボールを打ち、そのクラブに合ったスイングづくりをしていたのである。クラブセットも同一メーカーとは限らず複数のメーカー品で構成され、各クラブスペックはバラバラなのが当たり前だった。だからどうしても打てないクラブが何本かあって、得意なクラブと不得意なクラブがあるのは当然とされた。今でもプロゴルファーのプロフィールには得意クラブ○○と書いてあるのはその名残りである。

 

だいたい達人のクラブは、あちこちグラインダーで削った後や鉛が張ってあって、戦場帰りの傷痍軍人のようだった。クラブを見ればその人の腕前が分かると言われたが、きれいなクラブを持っている人は自分のスイングができていないか、もったいなくて削ることができなかった人である。ケニー・スミスによってバランス計が作られたとき、試しに名手ボビー・ジョーンズの使用クラブを計ってみたところ、全てのクラブが同じバランスだったという伝説がある。それにヒントを得たせいか、ケニー・スミスは「貴方だけのクラブをつくります」と宣伝していたが値段はめっぽう高かった。しかし、ケニー・スミスを使っている人に名手はいなかったように思う。自分の名前が刻まれた高価なクラブを切ったり張ったりできる人など、めったにいなかったからだろう。

 

1976年ゲーリーワイレンが、PGAマガジンに「ボールフライトロウ」を発表してから米国に本格的なスイングイノベーションが起こり、ワンスイングの探求が始った。ワンスイングとは各プレーヤー固有の一定スイングという意味である。記憶では私たちが最初にワンスイングを見たのは、NHKが放映したジャック・ニクラウスの特集番組からである。ドライバーからウェッジまで全く同じスイングテンポで打つ二クラスの技術は基本と言うより芸術だった。なぜドライバーからウェッジまで全てのクラブを同じスイングで打てるのか、多くの人が唖然として見つめたものである。言うまでもなくワンスイングを可能にしたのはクラブ製造技術の進歩であるが、あくまでも工業技術の進歩で規格大量生産が可能になったからある。同じスペック性能のクラブを大量に製造することができるようになったからといって、決してゴルフが進化したわけではない。基本に則ったワンスイングが完成していなければ規格工業製品は役に立たない。

 

では基本とは何か 2

松山英樹が太平洋マスターズに優勝し、石川遼が優勝の花道を出迎えた。暫らく明るいニュースに乏しかった日本の男子プロゴルフ界に、若者が爽やかな話題を提供してくれたが、日本のゴルフ界は稀に見るこの二人の逸材を大切に育てなければならない。ゴルフに限らずどんな世界でも逸材は存在し、若くして才能の片鱗を見せるものは多い。特に体力勝負のスポーツ界ではその傾向が強いが、なぜハタチを過ぎると唯の人になることが多いのか。低迷し続ける日本のゴルフ界は、この逸材を決して唯の人に終らせてはならないのだ。

 

「神童もハタチ過ぎれば唯の人」とはよく言われることだが、実例は周囲にいくらでもある。反対に「大器晩成」とも言われるが、いま男子プロゴルフ界はアラフォー世代に支えられている現実がある。ジャックニクラスがシニアツアー入りしたとき「私のゴルフはまだ進化していると思う」といった言葉を思い出すが、それは負け惜しみでもなく実感だったに違いない。二クラウスのあと帝王の座を継いだトム・ワトソンが、還暦を迎えた年に全英オープンでプレーオフになるまで優勝を争ったことは記憶に新しい。

 

ハタチ過ぎて成長が止まるのを「早熟現象」ともいうらしいが、肉体的な成長が止まることが原因か、精神的に成長し始めることが原因か良く分からない。
両方が原因になっているとも思えるが、両方が原因になっているとすれば肉体と精神の成長は二律背反してしまう。それではスポーツ選手の人間的な成長はありえないことになってしまうから、この考えは間違っている。人間的な成長は艱難辛苦という人生トレーニングを受けないと得られないと言われるが、早熟現象が起きる人はハタチまでに大成してしまい、人生トレーニングを受ける機会を失ってしまったことが原因なのだろうか。

 

確かにタイガー・ウッズは尊敬する父親の保護を失ったら、厳しい人生トレーニングに耐えられず人生そのものを破綻させてしまった。反対に横峰さくらは父親の手を振り払って自ら人生トレーニングに飛び込んだら、どんどん成長し始めた。ゴルフが人生ゲームに例えられるだけに、この二人は対照的な存在だ。石川遼も松山英樹もこれから人生トレーニングが始ることになるが「では基本とは何か」という課題が生まれる。松山英樹は東北の人に励まされてマスターズに出場しようと決意したそうだが、最初の人生トレーニングとして最高の基本プログラムを与えられたのではないだろうか。見ていて成長を感じる。