国際化とグローバル化

2年ほど前に相撲協会の体質が問われて大騒動したが、今度は柔道連盟の体質が問われて大バトルが始まった。相撲も柔道も日本の伝統スポーツ文化としての歴史を持っている。今では横綱も優勝者も外国人力士が独占しているし、モンゴル出身の力士が圧倒的に強いのをみても国際化したことは明らかだ。それならモンゴル相撲と日本相撲が同じ格闘技かというと実際には大分違うし、欧州出身の力士はレスリングやサンボなど全く別の格闘技から転向しているようだ。だから相撲の場合には相撲が国際化したというより、力士が国際化したというほうが正しい。相撲興行は日本国内だけで開催されているから国際化したとはいえないが、ウランバートル場所とかモスクワ場所、パリ興行とかニューヨーク興行が開催されるようになれば本当に国際化したといえるだろう。

 

相撲に対して柔道は完全に国際化している。世界中いたるところに柔道場があり、世界各国に柔道協会があるうえ世界柔道連盟という国際組織まである。さらに世界統一ルールに従って世界選手権やオリンピック大会が開催されているから、国際化を超えてグローバル化したといってもよいのではないか。つまり同一基準に従って地球規模で行われているからグローバル化である。ところがどうも最近明らかになってきたことは、日本の柔道界の実態が古式豊かな伝統技芸の姿を残したまま存在していて、国際社会どころか現代社会そのものに受け入れがたい状態のようだ。これをガラパゴス化というが、密閉された閉鎖社会で行われている古き慣行は、その世界で常識であっても一般社会では非常識を超えて犯罪行為なのである。事情聴取を受けたり逮捕された関係者に全く責任意識がないところに更なる問題の深さが感じられるのだが。

 

実際に柔道の試合を見ていると、外国選手の闘い方は「エッこれ柔道?」と思うことが時々ある。柔道ってもっと堂々としたもの、礼儀正しいものという先入観があるから違和感を感じるのだが、私の錯覚なのだろうか。この度の騒動は指導員や指導現場から発生したものだが、彼らはみな日本柔道連盟と文部科学大臣が認定した指導資格認定証を掲げている。それでは外国で指導している指導員たちも日本の文部科学大臣の認定証を掲げているのだろうか。そんな話は聞いたことがないし、他にも不思議に思うことがある。鍼灸治療院や整体治療院には、日本柔道連盟と厚生労働大臣が認定した接骨治療師の認定証が掲げてある。接骨治療師が柔道を指導しているとも思えないし、レントゲンも手術室もない治療院で、交通事故や工事現場で起きた複雑骨折の治療ができるとも思えない。果たしてそれを日本柔道連盟や厚生労働大臣が認可して問題ないのだろうか。なにやらウサンクサイ気がする。大臣認定の資格認定証は他にもいっぱい存在するが大丈夫だろうか。TPPの交渉が今年から始まるようだが、国際化からグローバル化に進もうとする時代にあって、日本固有の構造や制度規制を大局的に見直すチャンスではないか。日本固有の伝統文化ならば是非とも守るべきだし、政界・官庁・業界団体の癒着から生まれた利権構造ならば一刻も早く構造改革して規制緩和し、外部の優れた技術や人材を受け入れた方がいいに決まってる。構造改革、規制緩和、TPP参加という言葉の意味はとても深いということを頭に入れておこう。

 

ゴルフの国際化

スポーツの世界はどんどん国際化し、日本の国技である相撲さえも開放政策を採らざるを得なかった。その結果、蔵前国技館に日本人の優勝力士像がなくなった。しかし、やがて世界中から力士を目指して人材が集まり、世界中に大相撲中継が流されるようになるだろう。日本固有の文化を求めて世界から人が集まり、その情報がまた世界に流されていく。世界の人々は髷を結って着物を着こなし、礼儀正しく振舞う姿にサムライの文化を見るかもしれないし、武士道精神を理解するかもしれない。既に柔道は世界に広まりオリンピック種目までなっているが、日本の武道は世界の人々にとっても魅力あるスポーツ文化として受け入れられたからに違いない。武道だけではなく茶道も華道も世界中に広まっているが、日本の文化として広まったことが素晴しい。

 

ご承知のとおりゴルフはスコットランドに発祥し、アメリカはじめ世界に広まった。欧米カナダ豪州には文化として広まったが、日本には商業娯楽として広まり文化の香りが消えてしまった。日本の若者はゴルフに余り関心を持たなくなってしまったが、日本のゴルフの姿に文化性より不健全性を見てしまったからではないだろうか。「贅沢ゴルフ」「接待ゴルフ」「会員権破綻」など、若者の判断のほうが正しい。もしそうだとすると、日本のゴルフに文化性を回復させるには相当の時間と努力を必要とする。若者の目に魅力的に映るには見せかけの文化ではなく本物の文化でなければならない。それは理屈ではなく感覚的な魅力だから、衛星放送などによって世界の檜舞台で展開される国際試合を観ることによって変化するかもしれない。日本の選手が国際試合で活躍する姿は何よりも効果があるが、そのとき日本の選手が欧米諸国の選手に見劣りするようでは逆効果だ。身長や飛距離の問題ではなく風格や品格の問題なのである。

 

日本には長い歴史と伝統に支えられた固有の文化がある。その文化を創ってきた日本人を支えているものは武士道精神といわれ、日本人の風格や品格を形成してきたともいわれている。ゴルフが国際化していく中で、日本のゴルファーが欧米諸国のゴルファーに堂々と伍していくには、武士道精神で武装するのが手っ取り早い。なぜならば欧米諸国のゴルファーは騎士道精神で武装しているからである。武士道精神は一級の風格と品格を備えているから、世界中どこに行っても通用する。日本のゴルフには風格も品格もなくなってしまったが、日本のゴルファーはいつでも武士道精神によって風格や品格を備えることができる。野球やサッカーはサムライを名乗って国際試合に臨んでいるのだから、ゴルフもやがてサムライを名乗って国際化に臨んで欲しいものだ。

 

ゴルファーとプレーヤー

私は永年ゴルフの世界にいながら「ゴルファー」と「プレーヤー」を意識的に区別してこなかったし、言葉の意味についても明確に定義してこなかった。
タイガー・ウッズや朝青龍の問題が起きて「はてな?」と真剣に考え出したのが正直なところだ。かつて「ゴルフ人口」を定義するのに「練習場ゴルファー」と「コースプレーヤー」と無意識に使い分けていた時期があるが、厳密に定義したわけではない。練習場にはコースに行った経験がない人も数多くいるだろうという意味で漠然と「練習場ゴルファー」といっていた。真面目に考えると「ゴルファー」と「プレーヤー」は明確に区別しなければいけない気がする。

 

普段ゴルフコースにはプレーする人しかいないから、全員プレーヤーといっても良さそうだし、全員ゴルファーといっても良さそうな気がするが、トーナメント会場となったコースでは、選手だけがプレーヤーでギャラリーはゴルファーも非ゴルファーもいる。最近、石川遼のまわりにはケータイカメラを持った「追っかけおばさん」がいっぱいいるが、どう見てもゴルファーには見えないもののコースに行った経験はある人たちだ。コースだけではなくテレビや雑誌の前にもゴルフの経験はないが、私以上にゴルフ界に詳しい人たちがいる。
インターネットの世界にはクラブもボールも触ったことがない「ゴルフオタク」が相当いるらしいが、実態については私もまだ良くわからない。このような人たちは「プレーヤー」ではないが「ゴルファー」と呼ぶべきだろうか。

 

国技館に行けば「相撲取り」と「相撲ファン」はすぐ区別できる。ちょんまげ結ってふんどしを締めてるいる人が「相撲取り」で、その他の人は全員「相撲ファン」だ。最近は「女性相撲ファン」がいっぱいいるが、ほとんどのひとが相撲経験はないはずで、横綱審議会の委員を務めた内館牧子さんだって相撲を取った経験はないと思う。でも内館さんの朝青龍に対する見解は立派で「アスリートとして尊敬できても横綱として認め難い」といって伝統を重視された。さすがに大学院で「大相撲の宗教学的考察」という論文を書かれただけのことはある。米国ゴルフ協会やマスターズ委員会がタイガー・ウッズに対して明確な見解を表明できなかったことに較べて実に立派だったと言いたい。
歴史と伝統のある日本の大相撲と歴史の浅い米国のゴルフとの差が歴然とした気がするが、本来なら英国に発祥するゴルフは大相撲以上の歴史と伝統をもっているし、宗教学的に考察したら「プレーヤーとしては尊敬できてもゴルファーとして認め難かった」はずである。マスターズ創設者のボビー・ジョーンズはプレーヤーである以前に、キリスト教騎士道精神を持った立派なアマチュアゴルファーとして聖人の冠を付された人だからである。

 

騎士道と武士道

「21世紀になって騎士道と武士道とは大層な」と言うなかれ。タイガー・ウッズと朝青龍の問題は現代社会を象徴するほど深い意味がある。ゴルフも相撲も商業主義に乗って人気絶頂だから、優勝者は金と名誉と名声を同時に手にする。勝者はスターとしてもてはやされるので、つい何をしても許されると思うかもしれないが実はそうではない。勝者がいれば必ず敗者がいるし優勝者の陰に無数の敗北者がいる。まさに「一将功なり万骨枯る」という世界なのだ。敗者の報酬は無残な敗北感だけで、決してスポットを浴びマスコミに書き立てられることもない。アメリカPGAツアーでは優勝賞金1億円余を狙って世界中から選ばれたトッププレーヤー140名余が出場するが、半分は予選落ちとして二日間で帰る。どんなにひもじくても水で腹を満たして次のチャンスを狙うしかない厳しい世界を生きている。相撲の世界も給料が保障されているものの、優勝者がほとんど良い所を独り占めしてしまう優勝劣敗の厳しい世界だ。

 

騎士道はキリスト教、武士道は神道仏教の影響を受けて900年ほど前から闘士の倫理道徳として礼節や惻隠を大切にして現在に受け継がれている。ゴルフは騎士道、相撲は武士道という伝統を守ってきたので、俄かに強者や勝者に王者面をされると伝統がボロボロになってしまう世界なのだ。ゴルフも相撲も伝統思想を守るか商業主義に徹するか苦渋の選択を迫られている点で共通している。伝統思想を守ろうとすると財政問題に直面し、商業主義に徹すると品格問題に直面する。この問題は王侯貴族でも庶民の世界でも何百年も続いたことだから慌てることはないが、デモクラシーの世界では庶民の良心が選択することになっているのだから、いずれみんなで答えを出せば良いではないか。

 

ゴルフも相撲も強い国際選手が次々と現れて国際色が益々強くなってきたが、グローバル世界の中で伝統はどうやって生き残ればよいのか。伝統は守るものでもあり破られるものでもあるから、やはり時代や商業主義と闘って一緒に生き残る道しかなさそうだ。先週フロリダのPGAナショナルコースで開催されたホンダクラシックはコロンビアのカミーロ・ビジェーガスが13アンダーで優勝したが、米国本拠地で開かれた試合の上位成績10名は英国人3人、韓国人2人、アメリカ、コロンビア、南アフリカ、スウェーデン、フィジー各1人だった。ゴルフも完全に国際競技になったことがわかるが、それにしてもアメリカ本拠地で開催され、日本企業がスポンサーになっているトーナメントに、日本からは誰も出場していないのはホンダさんじゃなくても寂しい話だ。武士道精神と品格を備えた若ザムライが日の丸を背負って世界に名乗りを上げるのはいつの日か待ち遠しい。

 

品格って何?

2010年は予想もしない幕明けとなった。ゴルフ界の帝王タイガー・ウッズが私生活上の不品行が原因で引退同様の状態になっているし、相撲界の帝王朝青龍も好ましくない言動が原因でとうとう引退させられた。二人とも稀な才能と実力を持つ現役ナンバーワンのトップアスリートにもかかわらず、何故このようなことになってしまったのだろう。二人に共通して言われていることは「品格に欠ける」ということらしいが、「品格ってナンだ」となると誰も歯切れが悪い。最近「○○の品格」という題名の本がいろいろ書店に出回っているが、品格がナンだと言われたら確かにどの本も歯切れが悪くなる。

 

ゴルフも相撲も歴史と伝統を持っていることで知られているがゴルフは騎士道、相撲は武士道という伝統精神のうえに成り立っている。騎士と武士はどう違うのかとなると「見れば分かるじゃない」となるし、ドッチが強いのかとなると「闘ってみれば分かるじゃない」となって話はシラケルが、騎士道と武士道の共通点は何かとなると話はススム。一言でいうと闘うことを宿命付けられた者の品格を追及していることだ。騎士も武士も個人的には何の恨みも憎しみも無いもの同士が、戦場では互いに殺しあわなければならない使命と宿命を負っている。そこに倫理道徳がなくなれば野獣以下の存在になることを恐れて、ギリギリの人間的尊厳として日常の礼儀正しさ、弱者敗者に対する優しさ、勝って驕らない謙虚さが求められるようになったのではないか。この人間的尊厳を「品格」といっているようで、欧米社会でも地位や身分にふさわしい品格を「ノーブレスオブリージュ」などといって大切にしているようだ。

 

タイガー・ウッズはコースではチャンピオンだが家に帰れば一人の夫。朝青龍も土俵では横綱だが外に出れば一人の若者。この当然の論理を常識とするデモクラシー社会を実現するのに、先人たちは苦労し血を流してきた。誰もが神の下では平等という大原則を忘れるとデモクラシーは成立しない。市場原理に従った品格なき弱肉強食の競争社会で世界中の人たちが今も苦しんでいる。だから今「国家の品格」「企業の品格」「国民の品格」「政治家の品格」「投資家の品格」と騒がしく人間的尊厳を取り戻そうとしているようだが、難しく言わなくても人間の良心を取り戻そうとしていると言った方が分かり易いかもしれない。
嬉しいことに日本の若ザムライたちは実に幅広い範囲で日本人らしく活躍しているようで、海外の人たちからも好感を持たれているようだ。スポーツマン、技術者、職人、事業家、PKO活動家から自衛隊まで評判が良いのに、なぜか政治家とゴルファーの評判がよろしくない。やはり品格の問題なのだろうか。