石松の活躍

田中将大が破格の契約金でヤンキースに入団した話題で持ちきりの先週、米国PGAツアーで石川遼、松山英樹の二人が上位入賞を果たした。石川はトップと二打差の7位タイ、松山は4打差の16位タイだった。日本の若者が世界のヒノキ舞台に進出して活躍する姿は見ていて頼もしく誇らしいものだが、活躍するだけでなくその言動も頼もしく誇らしい。既にイチロー、松井をはじめとする野球選手がサムライといわれるほど日本人らしく堂々と振舞うさまは天晴れとしか表現のしようがない。今後も記者会見に臨んで苦手な英語を無理に話す必要はないし、照れ隠しのお世辞笑いもいらないから、日本式に礼儀正しく挨拶して欲しい。「郷に入って郷に従え」ということと「日本人のアイデンティティを失わない」ということは相反することではないのだから。

現代はグローバル・ダイバーシティ(世界規模の多様性)を受け入れなければならないといわれるが、アメリカ大統領もその女性補佐官もPGAツアーの帝王も黒人である事実がそれを証明している。PGAツアーにはオリンピックのようにいろいろな国籍の選手が出場しているし、街でも多様な人種を見かける。国技館に行けば歴代優勝者の肖像画に日本人力士の姿はない。それなのに大学病院には外国人医師も看護士もいないし、裁判所には外国人裁判官も弁護士も見当たらない。学校でも外国人教師はめったに見ない。スーパーやコンビニには外国産食品がいっぱい並んでいるのに、ドラッグストアには外国製薬品がない。多様化が進んでいる分野とそうではない分野がはっきりしてきたが、今後ゴルフはどうなるのだろう。日本のゴルフ場に外国人ゴルファーが溢れ、日本ツアーで世界中のトッププレーヤーが競い合う時代が来るのだろうか。

多様性は画一性の反対概念だから、早い話が「何でもあり」の社会が始まることになるが、見方を変えれば混乱した社会でもあり混沌とした社会にもなる。そんな社会で自分の存在をはっきりさせることがアイデンティティの確立とすれば、ゴルフには長い歴史と伝統に支えられた固有の思想文化があるから、どこまで個性が受け入れられるか問題だ。石川も松山もゴルフという郷に入ってはゴルフの郷に従う必要があるが、その中で日本人らしいアイデンティティを何処まで発揮できるか楽しみだ。礼儀正しいことや真面目で正直なことは日本人の特徴だが、これはゴルフだけでなく世界中どんな社会でも通用する。日本人のアイデンティティは武士道精神ともいわれるが、この精神がゴルフの世界でも通用することを二人にも知って欲しい。アジアツアーが盛んになり石松時代が本格化した頃には、キリスト教徒だけでなくイスラム教徒やヒンズー教徒、仏教や儒教のゴルファーも出場するだろうが、そんな中で毅然とかつ燦然と輝く武士道石松の姿を見たいものだ。

 

石松時代の到来か

「両雄並び立たず」という言葉があるがライバル同士がお互いを切磋琢磨して両雄を大きく育てることがある。野球の王・長島、相撲の柏戸・大鵬、ゴルフの青木・尾崎、パーマーと二クラスがそうだ。いま石川遼と松山英樹がそんな関係になりつつある。年齢も同じだし、お互いが意識し尊敬し合っている。二人の関係は見ていてとても爽やかで微笑ましくもある。それでいてタイプも性格も正反対のように見える。石川は都会的で洗練された感じ、松山は野性的で無骨な感じが良い。石川が周囲に気を配り丁寧に受け応えしているのに対し、松山はマイペースで愛想がない。この二人は似たもの同士ではなく全く対照的だ。それぞれの個性を強力にかもし出しているにも拘らず、二人とも嫌味がない。それは演出されたり創作されたものではなく、生まれながらに備わったものが個性となって現れているからだろう。

日本の社会は共通性や画一性を大切にして成り立ってきた。社会全体が何処の切り口を見ても同じ顔かたちなので「金太郎飴」などといわれた。学校に通いだしたときから同じ服に同じ鞄、同じ教科書に同じ授業、違う服装をしたり違う教科書を開いていると先生に叱られた。人は顔かたちが違うように、性格も能力も関心もみんな違っているはずだが、みんな同じ教科を同じ時間づつ勉強させられていた。好き嫌いや得意不得意に関係なく皆同じ教育を受けて、その中で誰が一番平均点が高いかを競わされてきた。平均点の高い子を優等生といい低い子を劣等性という。同じ型にはめて教育するから画一教育ともいうが、いくらボールを遠く正確に飛ばそうがパットの名手だろうが、文部省の定めた教科の平均点が低ければ劣等性の烙印が押される。

石川や松山が優等生か劣等生か知らないが、そんなことに関係なく素晴しい若者を育ててくれた学校や両親に拍手を贈りたい。学校も家庭も金太郎飴を育てるのに戦々恐々としてきたが、できた金太郎飴はちょっと変な顔をしていると規格外とか出来損ないといって社会からはじかれてしまう。そもそも何で金太郎でなくちゃいけないのか、アンパンマンやタイガーウッズの顔じゃいけないのか、犬や猫じゃいけないのか。このようにひとつの顔ではなく、いろいろな顔を育てる教育を民主教育というはずだし、いろいろな顔を個性として受け入れる社会を民主主義というはずだ。政治経済・スポーツ芸能あらゆる社会に個性あるいろいろな顔が揃うと楽しいし、若者にとっても無限の可能性が秘められた社会が実現する。でも唯ひとつ必要な画一性として、エチケットルールを守る品性と感性を備えないと、たちまち堕落社会や無法社会に転落する。

 

世界統一されたハンディキャップシステム

ゴルファーなら大概「ハンディキャップ」という言葉は知っているが、実際に持っている人や正しく使っている人は案外少ない。コンペに参加した経験があっても、ほとんどが新ペリア方式という競技終了後に逆算する「くじ引きハンディキャップシステム」だから優勝者も実力で優勝した実感がない。優勝して感想を聞かれると「パートナーとハンディキャップに恵まれまして・・」と妙な挨拶をするが、それが優勝者の偽らざる実感だ。そのハンディキャップシステムが2014年1月からUSGAシステムに統一されることになったが、世界はとっくの昔に1998年からUSGAとR&Aの決定に従ってゴルフ規則同様に世界統一基準になっていたのだ。日本だけが例によって諸般の事情により統一基準を導入できなかったが、2014年日本で開催される世界アマ、2016年リオで開催されるオリンピックを前にいよいよ世界統一基準を導入することになった。

世界統一基準になったUSGAシステムというのは受験偏差値に大変似た制度で、受験校に相当するコースに 55 から 155 までの Slope Rate(難度)を査定し、受験生に相当するプレーヤーに +3.5 から 40.4 までの Handicap Index (技量)を査定するシステムになっている。USGAシステムによれば、ひとりのプレーヤーが SR 90 のコースでプレーした場合と、SR 130 のコースでプレーした場合では同じスコアでも評価は全く異なる。どちらのコースもボギーペース 90 で回ったとすれば SR 90 のコースは 100X113/90=125.5 と評価され、SR 130 のコースは 100X113/130=86.9 と評価される。113 はUSGAの定める一般プレーヤーの標準難度を指しており、実際に査定するときは更に上級者用の難度基準 Course Rate も加重してHandicap Index算出の根拠にする。

私たち日本のゴルファーはハンディキャップがないことに慣れてしまったから今さら世界統一基準を導入すると言われてもピンとこない。でもゴルフが巧そうな人を「あの人はシングルだ」といって崇拝しているのは事実で、実際に根拠を聞いてみると「ドライバーを250ヤードも飛ばすから」という理由によるのはびっくり仰天だ。それを裏付けるようにゴルフ雑誌はどれも「飛ばしの秘訣」を書き並べ、クラブやボールの広告はどれも「脅威の飛び」を宣伝している。実際のところ多くのゴルファーにとって飛ばすことが命で、ハンディキャップなどどうでも良さそうだが、それでは世界アマやオリンピック開催国としていささか寂しいし、日本人を正統ゴルファー・国際ゴルファーとはお世辞にも言えない。あらゆるスポーツゲームの中でゴルフだけがハンディキャップ概念を持ち、老若男女が技量に拘りなく同等勝負できる舞台をつくり名実共に生涯スポーツやファミリースポーツを具体化した。東京オリンピック開催までになんとか日本のゴルフやゴルファーが世界から評価されるようにしたいものだ。

 

ルーク・ドナルドのゴルフ

ダンロップフェニックスに6打差で優勝したルーク・ドナルド(英国)のゴルフを久しぶりにじっくりと観察させてもらった。世界の賞金王になるような人のゴルフはどこが違うのだろう。テレビ画面での観察だから大分的外れかもしれないが、スイングだけでなく表情、挙動、歩行姿など仔細に観察した結果、そこにはオーラだの栄光だの貫禄だの王者を表すようなものは何も見られない。物静かなひとりの英国人が淡々とゴルフをしている姿しか見えてこない。派手なパフォーマンスでギャラリーを沸かせるプロゴルファーの姿を見慣れてきた私たちにとって、改めて何かを感じさせられるルーク・ドナルドだった。

英国で発祥したゴルフは何百年も前から騎士道だの紳士道だの倫理道徳や行動規範を追求する精神文化として伝わってきた。百年ほど前に米国や日本に伝わったが、最初のうちは英国伝統精神を守っていたものの段々経済成長に伴って商業主義が支配し始め、伝統精神は影を潜めていったようだ。それでも米国は英国と同じプロテスタント国だったために、英国伝統精神を守ろうとする精神基盤は残っていたようだ。それが証拠に帝王タイガーウッズの非道徳的な言動に対して「No」を突きつけ謹慎を申し付けている。米国の国家理念とゴルフの基本精神は気脈を通じていることを明らかにした。

日本に伝わったゴルフは高度経済成長が始まる前1960年代までは英国伝統精神を受け継ごうという姿勢がはっきりしていたが、1970年代に入り高度経済成長が始まるや、伝統精神なんかかなぐり捨てて一直線に商業娯楽主義に突き進んでいった。さらに1980年代に入ると金融資本主義に毒されバブルに便乗して大暴れしてしまった。英国や米国の伝統名門コースを札束で張り倒すように買い漁ったのはこの頃である。1990年代に入ってバブルが崩壊すると日本のゴルフは大破綻し、プードルが水を浴びたようなみすぼらしい姿に変わり果てたが、日本のゴルフを復活させる道は英国伝統精神を取り戻すことかもしれない。

私たち日本のゴルフファンはバブル崩壊後、次々に破綻していくゴルフ場や紙屑となっていく会員権に幻滅したというより、虚勢を張って気取りきった田舎侍のようなゴルフ場の姿勢や見栄っ張りの成り上がり者集団のようなゴルファーの姿に幻滅した。いま日本の若者がゴルフに何の魅力も感じなくなったのは幻滅感だけが脳裏にこびり付いているからに違いない。でも思い直して欲しいのは世界を見る目と世界から日本を見る目を持てば、私たちがどんなに恵まれた国に生まれ育ったかが分かる筈だから。日本は米国に次ぐ世界第二位のゴルフ大国であること。日本には英国に負けない武士道や武道、茶道や華道などの高い精神文化が備わっていること。パラダイムの転換を図れば日本のゴルフは必ず復活するということをルーク・ドナルドは教えてくれた。

 

キャディゴルフからの脱皮

久しぶりに接待ゴルフ場でゴルフをした。すっかりセルフプレーに慣れたいま改めて思うのは、日本のゴルフ近代化を遅らせたのはキャディ制度から脱皮するが遅れたのが原因ではないかという疑問だ。今もそうだが日本では成人ないし社会人になってからゴルフを始める人が多いから、どうしてもキャディに面倒を見てもらわないとゴルフができなくなってしまった。日本のキャディは接待係と進行係の役目を負っているから旅館の女中、料理屋の仲居、宴会場のホステス宜しく実に客の面倒見が良い。「おもてなし」という日本固有のサービス文化の典型だ。日本のゴルフ場は競ってキャディ教育に力を入れたものの肝腎のゴルファー教育を怠ったたため、世界一のキャディサービス制度が確立した反面、セルフプレーのできない過保護ゴルファーが育ってしまった。

 

私たち日本のゴルファーは総理大臣から中小企業の社長まで、イヤイヤ女性ゴルファーからジュニアゴルファーまでがキャディの過保護サービスがなければゴルフができなくなってしまったのだ。お客さまであるプレーヤーは球を打つだけで、後のことは全てキャディが世話をしてくれるから心置きなくゴルフを楽しめば良い。ルールの適用から、飛ばしたティーを拾うのも、ダフった跡も直すのも、クラブをバッグにしまうのも、ボールを捜すのも、次のクラブを選ぶのも、方向を確認するのも、バンカーをならすのも、ボールマーク跡を修復するのも、マークしてボールを拭くのも、旗ざおを支えるのも抜くのも元に戻すのも、み~んなキャディの仕事だ。最近は余り見かけなくなったが、プレーが終わった後にキャディの勤務評定を求めるコースもある。ココまでは職務だから仕方がないとして、キャディがライの良さそうな所にボールを動かしたりフェアウェイに出してくれるのはサービス過剰を超えて規則違反幇助になる。困ったことにキャディの過保護で育った私たちは違反に対して何の悪気もなく、これが世界に通用する正統ゴルフだと思い込み、自分の人格が疑われ日本人の信用を落としていることに全く気が付いていない。

 

これからTPPはじめ海外で貿易交渉会議が行われ、親睦ゴルフや国際交流ゴルフが盛んに行われることだろう。しかし、まさかまさか安倍さん、麻生さんはじめ政治家、外交官、官僚のみなさん、随行する企業代表のみなさんは過保護ゴルファーじゃないでしょうねえ。お願いだから国際舞台で日本人の本質を問われるようなゴルフはしないで下さいよ。私たちだって海外でゴルフをする機会も多くなるだろうし、いつ外国人とゴルフをするか分らない。今回エチケットやルールの基本映像テキストを無料公開したのは、東京オリンピック目指して一人でも多くの人に正統ゴルフやスマートゴルフを学んで欲しいと思ったからで、海外でゴルフをするときは必ず出発前に「ngf  world」で検索して、エチケット&ルールだけでも学習して頂きたい。中国東南アジア在住の日本人ゴルファーに是非お願いしたいのは、NGFのeラーニングで正統ゴルフ・伝統ゴルフを学び、日本は決してゴルフ文化後進国ではないことを証明して欲しいのです。

 

 公開映像  Enjoy Golf Lessonsゴルフの達人 ルール&エチケット編

 

 

ゴルフの団体戦

先週「2013プレジデンツカップ」がアメリカで開催され、日本から松山英樹が選手として選ばれ出場した。プレジデンツカップというのはアメリカチーム対アメリカ・ヨーロッパ以外の地域選抜チームとの団体戦のことで両チーム各12名の選手で構成される。1994年から始まったプレジデンツカップに対し1927年から始まった歴史と伝統を誇るアメリカ対ヨーロッパの対抗戦「ライダーカップ」がある。「ライダーカップ」は遇数年に開催され「プレジデンツカップ」は奇数年に開催されるので、アメリカだけ毎年試合をしていることになる。

 

どちらの試合も日本では余り馴染みがないようだが、マッチプレーによる団体対抗戦という試合形式が良く分からないことと、日本からの出場選手が少ないことによるのだろう。日本のゴルフが野球やサッカーに比べてイマイチ盛り上がらないのは個人戦によるからではないかと思う。野球にしろサッカーにしろチームフ ラッグを振って応援合戦するのに比べ、ゴルフの個人戦はお通夜のような静けさが漂う。ところがゴルフでも団体戦となるとマナーを守りながらも運動会のよう なお祭り騒ぎになるから、どうも競技形式の違いらしい。

 

日本のゴルフ競技からマッチプレーと団体戦がすっかり影を潜めてしまった。どこの競技に参加しても新ぺリア・ストロークプレーばかりで、よほど調子が良いか、くじ運が良いとき以外は面白くもない。いまでは殆どのゴルファーが団体戦やマッチプレーの経験がなく、やろうと誘っても反ってつまらなそうな顔をされてしまう。一度やってみれば初心者も上級者も、女性も高齢者も子供のように興奮してはしゃぎまわるのに。

 

「ワンボールゲーム」「ペアマッチ」「スクランブルゲーム」「ステーブルフォード」などの競技は初心者プログラムと思っている人が多いようだが、実はライダーカップやクラブ競技として行われる正統ゴルフなのである。オリンピック種目の「団体戦」や「マッチプレー」を日本中で楽しむ環境が整えば、東京オリンピッ クに向けて日本のゴルフはどんどん活性化するだろう。団体戦やマッチプレー、ハンディキャップインデックスやコースマネジメントの普及はゴルフ文化のバロ メーターなのである。

 

 

2013日本女子オープンゴルフ

プロアマ含めて女性ゴルファー日本一を決める「日本女子オープン」が相模原カントリークラブで開催され、宮里美香選手が二度目の日本一に輝いた。この試合に出場するには数々のハードルがあって基準を超えられるものは僅かしかいない。シード権を持っているのは昨年度15位以内。ジュニア・学生・ミッドアマ選手権優勝者。賞金ランキング30位以内。過去5年プロ選手権優勝者。昨年から今年9月までのLPGA競技優勝者。ワールドランキング20位以内。それに予選通過者となっていて内訳はアマチュア24名、日本人プロ65名、外国人プロ19名の合計108名が出場した。

 

シード権のない人は4ブロックで開催される予選を通過しなければならないが、この予選に出場するにもハンディキャップ・インデックス7.4以内。学生連盟推薦60名のほかにジュニア選手権10位以内。学生選手権20位以内。日本・国際ツアープロライセンス所有者。プロテスト予選通過者などとなっており予選段階から既にハードルは高い。これらの条件を満たした選手487名が予選競技を行い、そのうち僅か上位15名が日本女子オープンに出場できた。

 

日本女子オープンを観ながら「わたしも東京オリンピック目指して頑張ろう」と思う子がたくさん生まれてくれば、それは素晴しいことだ。しかし娘の夢を後押しするお父さんは数千万円掛けても99%夢破れることを覚悟し、夢破れたときの備えもしておかなければならない。それこそ本当の親心というもので、夢が実現しなくても親子で夢を共有し、娘の成長を見つめつつ共に素晴しい人生を歩めたことを感謝しなければならない。家庭崩壊や親子断絶が問題になっている時代に、親子が結束し家族が一丸となって夢を追いかけるなんて、それこそ「夢のような話」ではないか。

 

商業スポーツの盛んな現代では成功すれば10代でも芸能タレントとして名声と金が同時に手に入る。「親孝行したかった」といってカップと賞金を手に涙ぐむ若者の姿をみるとコチラも涙ぐんでしまいそうだが、大人は1%の世界だけを見て感動していてはいけない。99%はどんな思いをしているのか、どんな生活をしているのか、どんな人生を歩むのか。先進国とか民主社会では全ての人に1%の夢を追うチャンスが与えられ、99%の人にやり直しと復活のチャンスが与えられなくてはならない。東京オリンピックの裏舞台には、夢を支える頑強な先進制度基盤やセーフティネットが用意されていないと「後の祭り」を嘆く大量のオリンピック難民が生まれるかもしれないからだ。

 

東北楽天の優勝に想う

東北楽天がシーズン優勝を決めた。東北にまたひとつ喜びの歓声が上がったと思うと心から「おめでとう!」とエールを贈りたくなる。鬼軍曹の星野監督が涙ぐみ、球界エースのマー君が雄叫びを上げるには東北の人達を喜ばせたい励ましたいという強い想いがあったからに違いない。その熱い想いが天に通じたかのような優勝だったが、シーズン中の数々の逆転劇も負けを知らないマー君の熱投も何者かに背中を押された力強さを感じざるを得ない。

 

ゴルフトーナメントの優勝者にも必ずその力強さを感じる。優勝者のプレーを振り返ると必ずありえないプレーがいくつかあって、やはり優勝する人は何者かに背中を押されて優勝するんだなあと思うことがよくある。日本人は「無心」とか「無我夢中」いう表現でそのときの心境を語り、欧米人は「祈る」という表現でそのときの行動を語るが、その結果は常識では考えられない想定外の出来事が次々起きて、天や神の働きをいやがうえにも思い知らされる。

 

反対に想定外のアクシデントや失敗が次々起きて、うまくいっていたものがメチャクチャになってしまうことがある。こういうときは「アガッタ」「欲が出た」「油断した」「プレッシャーがかかった」などさまざまな表現を使うが、そのときほとんどの人が自分は何をしているか解らない心境に陥り、セルフコントロールできない状態にあったはずだ。こういうとき「無心」になるのは難しいが「祈る」のは易しい。ゴルフがメンタルゲームといわれるゆえんだろう。

 

このような精神状態やゲーム展開を科学的にコントロールするのがマネジメントサイエンスといわれる領域だが、欧米が進化している割に日本ではほとんど普及していない。日本人は信仰心がうすい割りに精神論が好きで短期戦は強いが長期戦に弱いのは、精神の緊張が長くは続かない証拠だろう。精神の緊張も良い緊張なら良いが、悪い緊張に限って長く続く。そんなとき瞑想にふけることもできないし座禅を組むこともできない。東北楽天の選手のように人を励ますために我を忘れて「無我夢中」にゴルフをしてみたいものだ。

 

東京オリンピックゴルフの思い

2020年東京オリンピック開催が決まった瞬間、日本中がパット明るくなり株価も上昇した。日本はバブル崩壊後、失業倒産の嵐が吹き荒れ仕事や財産を失うものが続出して何をやっても巧くいかない時代が続いた。そこに地震や津波が一瞬にして人々から全てを奪う光景をライブで見せられ、私たちは過酷な現実や自然の掟をイヤというほど学ばされた。かつて私たちの先祖は源平の合戦や応仁の乱で都が焼失し人々が難民と化した経験や、地震や津波で村や街が全滅する災害を何度も経験してきている。空襲と原爆で日本の主要都市が全滅してから未だ70年経っていない。私たち日本人が忍耐強いといわれるのは苛酷な環境を生き延びた先人たちから受け継いだDNAのお陰かもしれない。

 

オリンピック招致に貢献した義足のアスリート佐藤真海さんのスピーチは忍耐強い日本国民の代表にふさわしかった。大学のチアガールをしていた佐藤さんは1年生のとき骨肉腫で右足を失い絶望の渕に落とされたが、義足をつけて陸上選手として復活した。ところが間もなく今度は気仙沼の実家が津波に流されるという不幸に見舞われ生きる気力さえ失いかけたという。ところが度重なる人生のトラブルを見事に跳ね返してロンドンオリンピックに出場したのである。佐藤さんの姿は私たちにとって励まし以上に教訓となり、そのスピーチは多くの人に感動と希望を与えただけでなく、オリンピック選考委員の人たちの心も強く揺り動かしたに違いない。

 

2020年東京オリンピック開催はゴルフにとっても大きな意味がある。金融投資や商業娯楽の対象として発展した日本のゴルフはバブル崩壊によって大破綻し復活の見通しも立たないまま、ついに経済産業省が「このまま対策を講じなければ2030年にゴルフ産業は崩壊するだろう」という予測を発表しなければならない状況に陥っている。毎年発表される経済産業省の統計データは確実に崩壊の道を辿っている姿を浮き彫りにしているが、オリンピック開催決定が何らかの対策を講じるきっかけになれば日本のゴルフは崩壊から救われるだけでなく見事に復活するかもしれない。佐藤さんのスピーチにそんな力を感じた。

 

日本のゴルフがすっかりガラパゴス化していることは何度かブログに書いたが、2020年を目標に日本のゴルフを根本から見直して、世界中でゴルフが発展しているのに、なぜ日本だけが衰退するのか徹底的に検証してみなければいけないと感じた。私は人生の半分に当たる35年間、日本のゴルフは必ずいつか米国に追いつき追い越せると信じてきたが、今では「もう駄目だ」という思いが強い。少なくとも「自分が生きている間にはありえない」という思いになっていたところ、佐藤さんのメッセージを聞き2020年東京オリンピック決定を知って考えが少し変わった。今こそ鎖国体制を解いて2020年に向かって英米の正統ゴルフを学び直すなら、オリンピックのときに追いつかないまでも背中が見える射程内に捉えることができるかもしれない。2020年までは生き伸びて何としてもこの目で確かめたい思いは日増しにつのる。

 

イチローの偉業

イチローが4000本安打を放ち、ピート・ローズ、タイ・カップに続く歴代3位の記録を達成した。インターネットや新聞にいろいろな情報が載ったが、本人が話した「4000本の裏に8000回以上の悔しさがあるんです」という言葉にズシリと重いものを感じた。イチローの平均打率は3割3分だから、確かに8000打席以上は凡打に終わったことになる。イチローはその凡打に終わった一打一打が本当に悔しかったのだろう。ピッチャーに対して4000勝8000敗だからバッターとしては大幅に負け越した思いが強いのかもしれない。勝負師は勝利より敗北から多くを学んでいるといわれるが、その学び方も半端じゃないのだろう。
イチローの経歴を見るとプロになって一年目は安打24本、二年目は12本と今となっては想像も付かない貧打振りだが、普通なら三年目に姿を消していてもおかしくない成績だ。ところが三年目に210本放って日本新記録を達成しているから、並の選手ではないことを実績で証明している。

 

私たち凡ゴルファーはイチローから爪の垢ほどでも学ぶことはないだろうか。イチローほどのプレーヤーですらナイスショットの確立が33%に過ぎないのに、私たち凡ゴルファーが毎回ベストショットを放とうとして力み、凡打に終わったといってクラブを叩きつけて悔しがっているのは名プレーヤーの証?。いやいやそうではありません。イチローは1試合に4,5打席しかないが、凡ゴルファーには90打席もあるのだ。そのくせイチローのような内野安打やバントヒット、ポテンヒットになろうものなら跳びあがって悔しがる。悔しがることではイチローに負けていないようだが何が違うのだろうか。そう、悔しがっているだけで反省がない。そこが根本的に違うようだ。何を反省しているのか教えて欲しいが、教えてもらったとしても実行できなければ同じことか。

 

私たち凡ゴルファーは試合が終わって反省する前に、全打席全ショットを思い出さない、イヤ思い出せない。さらに悪いことにナイスショットは実力と思いこみ、ミスショットは不幸か不可抗力と思いこむ。だから反省がない。反省がないから帰ってきて練習をしない。次の試合に向けてトレーニングをつまないから同じ凡打を繰り返す。そんなことを10年、20年と繰り返すうちに肉体的な衰えを感じ「何かいいクラブないかな」と考え試打会を渡り歩くようになる。それでも日本のゴルフ産業は私たち「懲りない凡ゴルファー」に支えられて辛うじて命脈を保っているのが現状だ。イチローが加齢とどう対決していくのか見ものだが、真似はできなくとも姿勢だけでも見習う必要がある。それは自分の加齢対策やゴルフ産業復活のためだけではなく、日本の将来にとって重要な課題だからである。

 

65歳以上の人口が3000万人を超えたそうで、そのうち2000万人以上が健康老人で老後の生甲斐を求めているという。このうち何割かがイチローの姿勢だけでも見習って、練習やトレーニングに励み自分の目標に向かって情熱を燃やすようになったら、やがて病院や養老院は閑散とし練習場やコースは満員になるだろう。病院や養老院がつぶれて練習場が建設され、休耕農家や生産緑地が消滅してコースが建設される時代が来たらどうしよう。心配するに及ばない。それこそ本当の高齢福祉社会が実現するのだから。そこにはきっとエージシュートをめざして日々トレーニングを重ねるイチローの姿があるに違いない。