オリンピックゴルフ

オリンピックゴルフってどんなゴルフだろう?って考えてみると実のところ良く分からない。当然、個人戦と団体戦が行われるはずだが国別対抗戦で金だ銀だ胴だ、メダル獲得数は何個だと大騒ぎをするかと思うと少々がっかりする。ゴルフこそ結果よりもプロセスが大切で、そのプロセスには人生そのものを感じさせるドラマが展開されるからである。最近トーナメント中継も上位選手のショットやパットだけをスポットで放映しているが、途中のプロセスはめったに放映しない。ゴルフというゲームは途中のプロセスにこそ人生そのものを連想させるドラマが展開されるから、観ている者もそこに人生や宿命を感じて胸を打たれるのだ。なぜこんなことが起きてしまったのか自分でも理解できないアクシデントや失敗に直面して、冷静な状況判断と適切な対応策を講じながらゲームを繋げていく姿にキャリアを感じ拍手を贈るのである。誰も助けることができないストイックなルールによって自己責任の重さを感じ、如何なる状況の中でも周囲への配慮を欠いてはならないエチケットによってジェントルマンシップの大切さを知ることができる。たったひとつのミスや不運が今まで耐えてきた努力の全てを水の泡とし、取り返しのつかない状態に突き落とされる。ところがその絶望的な状況を耐えて乗り切ったものには、まさかと目を疑うチャンスが転げ込んだりする。ゴルフというゲームは決して諦めたり投げたりしてはいけないことを多くの人に教えてくれるスポーツなのである。だからオリンピックがメダルの色や数を競うスポーツ大会ならばゴルフは最もふさわしくない種目だともいえる。

オリンピックもゴルフも商業経済主義に流されていった点においては同じ運命を辿った。オリンピックは今やスポーツの祭典というより商業スポーツ見本市という方が納得いくし、ゴルフも伝統スポーツというより賞金レースとか用品コンテストという方が実態に合っている。スポーツによらず文化によらず過度の商業経済主義に流されると段々と衰退する傾向にあるようだ。2020年東京オリンピックは過度な商業経済主義に流されないよう気をつけないと、オリンピックが終った途端に経済もスポーツもゴルフもいっぺんに衰退してしまう危険があるような気がしてきた。そうならないためには私たちひとり一人が自らスポーツやゴルフを愛好し、生涯の友として親しむことが何より大切なのではないだろうか。未成年が一億円稼いだ話もトッププレーヤーが何億円で契約した話も、正直言って私たちアマチュア愛好家にとっては面白くもおかしくもない話だ。そんなことより「見せたかったよォ、今日の5番ティショット。プロかと思ったよオレ」。「やったよォ、とうとう90切ったよ」。こんな話の方がよほど面白おかしい。家に帰り興奮して家族に話せば「良かったわね。お赤飯でも炊きましょうか」。オリンピックゴルフの原点もこんな所にあるに違いない。

 

ソチオリンピック終わる

オリンピックが終わってほっとした人、やれやれと思った人、関係ない人さまざまだが、マスコミもネットも浅田真央の情報で持ちきりだ。真央ちゃんが素晴しい感動を与えてくれたことには何の異議もないのだが、その影に無数の感動や絶望があったことを考えると、何か割り切れないものが残る。「一将功なり万骨枯る」とは今も昔も同じことで時代や社会が変わっても人間の本質が変わる訳ではない。昨年の日本プロ野球リーグ戦は終わってみればマー君のリーグだったし、日本プロゴルフトーナメントは松山英樹、世界トーナメントはタイガーウッズのトーナメントだった。シーズンが終わると他のプレーヤーはみんな影が薄くなってしまうが、マスコミや時代スポットというのは少数の人を照らすもので、多くの人を照らすものではないらしい。

ゴルフがオリンピック種目に採用されたことは嬉しい限りだが、オリンピック報道を見ていると金だ銀だ銅だ、日本はメダルがいくつだ、世界で何番目だと結果ばかりに目が向いて、肝心の趣旨目的は忘れてしまう。競技がオリンピック種目になるかどうか業界団体や関連企業組織にとって重大関心事だが、一般プレーヤーとって大きな関心事ではない。オリンピック種目の中でも観たこともやったこともない種目に関しては、世界のトッププレーヤーが技を競い合うさまを観るのは面白い。スキージャンプやハーフパイプ、フィギュアスケートやモーグルなどは未知の世界を観ているようで興奮する。2016年リオオリンピックからゴルフが正式種目に採用される。もちろん次の東京オリンピックの正式種目にもなり会場も霞ヶ関カンツリークラブに決定している。私も業界人の一人だからオリンピック種目に採用されたり、東京開催が決定したときは大喜びしたが、一人のゴルファーに戻ったとき「ウン!それがどうした」という妙な気分になったのには驚いた。ゴルファーの私にとって、それがオリンピック種目であろうがなかろうが、私にとって大切な生涯スポーツであることになんら変わりがないからだ。

今日も私は日課にしている一日20分のストレッチ・パット練習・スイングトレーニングをしたが、それは決してオリンピックに刺激されたからではない。自ら掲げたエージシュート達成のためである。エージシュートを達成するには、まずは何が何でも東京オリンピックまでゴルフができる状態で生きていなければならないし、2020年に私は77歳の米寿を迎える。そのとき77以下で回れるかという私にとってはまさに余命との真剣勝負なのだ。生きているか否か、健康か否か、気力や技量が伴っているか否か、経済的・時間的余裕があるか否か、目標達成率はどんどん下がっていく。私の東京オリンピックはもう始まっている。「全国3000万のご同輩、私に付合って頂けませんか。すごいゴルフ振興策になるんですが・・・」ともう業界人の私に戻っている。イヤな奴。

 

石松の活躍

田中将大が破格の契約金でヤンキースに入団した話題で持ちきりの先週、米国PGAツアーで石川遼、松山英樹の二人が上位入賞を果たした。石川はトップと二打差の7位タイ、松山は4打差の16位タイだった。日本の若者が世界のヒノキ舞台に進出して活躍する姿は見ていて頼もしく誇らしいものだが、活躍するだけでなくその言動も頼もしく誇らしい。既にイチロー、松井をはじめとする野球選手がサムライといわれるほど日本人らしく堂々と振舞うさまは天晴れとしか表現のしようがない。今後も記者会見に臨んで苦手な英語を無理に話す必要はないし、照れ隠しのお世辞笑いもいらないから、日本式に礼儀正しく挨拶して欲しい。「郷に入って郷に従え」ということと「日本人のアイデンティティを失わない」ということは相反することではないのだから。

現代はグローバル・ダイバーシティ(世界規模の多様性)を受け入れなければならないといわれるが、アメリカ大統領もその女性補佐官もPGAツアーの帝王も黒人である事実がそれを証明している。PGAツアーにはオリンピックのようにいろいろな国籍の選手が出場しているし、街でも多様な人種を見かける。国技館に行けば歴代優勝者の肖像画に日本人力士の姿はない。それなのに大学病院には外国人医師も看護士もいないし、裁判所には外国人裁判官も弁護士も見当たらない。学校でも外国人教師はめったに見ない。スーパーやコンビニには外国産食品がいっぱい並んでいるのに、ドラッグストアには外国製薬品がない。多様化が進んでいる分野とそうではない分野がはっきりしてきたが、今後ゴルフはどうなるのだろう。日本のゴルフ場に外国人ゴルファーが溢れ、日本ツアーで世界中のトッププレーヤーが競い合う時代が来るのだろうか。

多様性は画一性の反対概念だから、早い話が「何でもあり」の社会が始まることになるが、見方を変えれば混乱した社会でもあり混沌とした社会にもなる。そんな社会で自分の存在をはっきりさせることがアイデンティティの確立とすれば、ゴルフには長い歴史と伝統に支えられた固有の思想文化があるから、どこまで個性が受け入れられるか問題だ。石川も松山もゴルフという郷に入ってはゴルフの郷に従う必要があるが、その中で日本人らしいアイデンティティを何処まで発揮できるか楽しみだ。礼儀正しいことや真面目で正直なことは日本人の特徴だが、これはゴルフだけでなく世界中どんな社会でも通用する。日本人のアイデンティティは武士道精神ともいわれるが、この精神がゴルフの世界でも通用することを二人にも知って欲しい。アジアツアーが盛んになり石松時代が本格化した頃には、キリスト教徒だけでなくイスラム教徒やヒンズー教徒、仏教や儒教のゴルファーも出場するだろうが、そんな中で毅然とかつ燦然と輝く武士道石松の姿を見たいものだ。

 

国際化とグローバル化

2年ほど前に相撲協会の体質が問われて大騒動したが、今度は柔道連盟の体質が問われて大バトルが始まった。相撲も柔道も日本の伝統スポーツ文化としての歴史を持っている。今では横綱も優勝者も外国人力士が独占しているし、モンゴル出身の力士が圧倒的に強いのをみても国際化したことは明らかだ。それならモンゴル相撲と日本相撲が同じ格闘技かというと実際には大分違うし、欧州出身の力士はレスリングやサンボなど全く別の格闘技から転向しているようだ。だから相撲の場合には相撲が国際化したというより、力士が国際化したというほうが正しい。相撲興行は日本国内だけで開催されているから国際化したとはいえないが、ウランバートル場所とかモスクワ場所、パリ興行とかニューヨーク興行が開催されるようになれば本当に国際化したといえるだろう。

 

相撲に対して柔道は完全に国際化している。世界中いたるところに柔道場があり、世界各国に柔道協会があるうえ世界柔道連盟という国際組織まである。さらに世界統一ルールに従って世界選手権やオリンピック大会が開催されているから、国際化を超えてグローバル化したといってもよいのではないか。つまり同一基準に従って地球規模で行われているからグローバル化である。ところがどうも最近明らかになってきたことは、日本の柔道界の実態が古式豊かな伝統技芸の姿を残したまま存在していて、国際社会どころか現代社会そのものに受け入れがたい状態のようだ。これをガラパゴス化というが、密閉された閉鎖社会で行われている古き慣行は、その世界で常識であっても一般社会では非常識を超えて犯罪行為なのである。事情聴取を受けたり逮捕された関係者に全く責任意識がないところに更なる問題の深さが感じられるのだが。

 

実際に柔道の試合を見ていると、外国選手の闘い方は「エッこれ柔道?」と思うことが時々ある。柔道ってもっと堂々としたもの、礼儀正しいものという先入観があるから違和感を感じるのだが、私の錯覚なのだろうか。この度の騒動は指導員や指導現場から発生したものだが、彼らはみな日本柔道連盟と文部科学大臣が認定した指導資格認定証を掲げている。それでは外国で指導している指導員たちも日本の文部科学大臣の認定証を掲げているのだろうか。そんな話は聞いたことがないし、他にも不思議に思うことがある。鍼灸治療院や整体治療院には、日本柔道連盟と厚生労働大臣が認定した接骨治療師の認定証が掲げてある。接骨治療師が柔道を指導しているとも思えないし、レントゲンも手術室もない治療院で、交通事故や工事現場で起きた複雑骨折の治療ができるとも思えない。果たしてそれを日本柔道連盟や厚生労働大臣が認可して問題ないのだろうか。なにやらウサンクサイ気がする。大臣認定の資格認定証は他にもいっぱい存在するが大丈夫だろうか。TPPの交渉が今年から始まるようだが、国際化からグローバル化に進もうとする時代にあって、日本固有の構造や制度規制を大局的に見直すチャンスではないか。日本固有の伝統文化ならば是非とも守るべきだし、政界・官庁・業界団体の癒着から生まれた利権構造ならば一刻も早く構造改革して規制緩和し、外部の優れた技術や人材を受け入れた方がいいに決まってる。構造改革、規制緩和、TPP参加という言葉の意味はとても深いということを頭に入れておこう。