石松の活躍

田中将大が破格の契約金でヤンキースに入団した話題で持ちきりの先週、米国PGAツアーで石川遼、松山英樹の二人が上位入賞を果たした。石川はトップと二打差の7位タイ、松山は4打差の16位タイだった。日本の若者が世界のヒノキ舞台に進出して活躍する姿は見ていて頼もしく誇らしいものだが、活躍するだけでなくその言動も頼もしく誇らしい。既にイチロー、松井をはじめとする野球選手がサムライといわれるほど日本人らしく堂々と振舞うさまは天晴れとしか表現のしようがない。今後も記者会見に臨んで苦手な英語を無理に話す必要はないし、照れ隠しのお世辞笑いもいらないから、日本式に礼儀正しく挨拶して欲しい。「郷に入って郷に従え」ということと「日本人のアイデンティティを失わない」ということは相反することではないのだから。

現代はグローバル・ダイバーシティ(世界規模の多様性)を受け入れなければならないといわれるが、アメリカ大統領もその女性補佐官もPGAツアーの帝王も黒人である事実がそれを証明している。PGAツアーにはオリンピックのようにいろいろな国籍の選手が出場しているし、街でも多様な人種を見かける。国技館に行けば歴代優勝者の肖像画に日本人力士の姿はない。それなのに大学病院には外国人医師も看護士もいないし、裁判所には外国人裁判官も弁護士も見当たらない。学校でも外国人教師はめったに見ない。スーパーやコンビニには外国産食品がいっぱい並んでいるのに、ドラッグストアには外国製薬品がない。多様化が進んでいる分野とそうではない分野がはっきりしてきたが、今後ゴルフはどうなるのだろう。日本のゴルフ場に外国人ゴルファーが溢れ、日本ツアーで世界中のトッププレーヤーが競い合う時代が来るのだろうか。

多様性は画一性の反対概念だから、早い話が「何でもあり」の社会が始まることになるが、見方を変えれば混乱した社会でもあり混沌とした社会にもなる。そんな社会で自分の存在をはっきりさせることがアイデンティティの確立とすれば、ゴルフには長い歴史と伝統に支えられた固有の思想文化があるから、どこまで個性が受け入れられるか問題だ。石川も松山もゴルフという郷に入ってはゴルフの郷に従う必要があるが、その中で日本人らしいアイデンティティを何処まで発揮できるか楽しみだ。礼儀正しいことや真面目で正直なことは日本人の特徴だが、これはゴルフだけでなく世界中どんな社会でも通用する。日本人のアイデンティティは武士道精神ともいわれるが、この精神がゴルフの世界でも通用することを二人にも知って欲しい。アジアツアーが盛んになり石松時代が本格化した頃には、キリスト教徒だけでなくイスラム教徒やヒンズー教徒、仏教や儒教のゴルファーも出場するだろうが、そんな中で毅然とかつ燦然と輝く武士道石松の姿を見たいものだ。

 

ルーク・ドナルドのゴルフ

ダンロップフェニックスに6打差で優勝したルーク・ドナルド(英国)のゴルフを久しぶりにじっくりと観察させてもらった。世界の賞金王になるような人のゴルフはどこが違うのだろう。テレビ画面での観察だから大分的外れかもしれないが、スイングだけでなく表情、挙動、歩行姿など仔細に観察した結果、そこにはオーラだの栄光だの貫禄だの王者を表すようなものは何も見られない。物静かなひとりの英国人が淡々とゴルフをしている姿しか見えてこない。派手なパフォーマンスでギャラリーを沸かせるプロゴルファーの姿を見慣れてきた私たちにとって、改めて何かを感じさせられるルーク・ドナルドだった。

英国で発祥したゴルフは何百年も前から騎士道だの紳士道だの倫理道徳や行動規範を追求する精神文化として伝わってきた。百年ほど前に米国や日本に伝わったが、最初のうちは英国伝統精神を守っていたものの段々経済成長に伴って商業主義が支配し始め、伝統精神は影を潜めていったようだ。それでも米国は英国と同じプロテスタント国だったために、英国伝統精神を守ろうとする精神基盤は残っていたようだ。それが証拠に帝王タイガーウッズの非道徳的な言動に対して「No」を突きつけ謹慎を申し付けている。米国の国家理念とゴルフの基本精神は気脈を通じていることを明らかにした。

日本に伝わったゴルフは高度経済成長が始まる前1960年代までは英国伝統精神を受け継ごうという姿勢がはっきりしていたが、1970年代に入り高度経済成長が始まるや、伝統精神なんかかなぐり捨てて一直線に商業娯楽主義に突き進んでいった。さらに1980年代に入ると金融資本主義に毒されバブルに便乗して大暴れしてしまった。英国や米国の伝統名門コースを札束で張り倒すように買い漁ったのはこの頃である。1990年代に入ってバブルが崩壊すると日本のゴルフは大破綻し、プードルが水を浴びたようなみすぼらしい姿に変わり果てたが、日本のゴルフを復活させる道は英国伝統精神を取り戻すことかもしれない。

私たち日本のゴルフファンはバブル崩壊後、次々に破綻していくゴルフ場や紙屑となっていく会員権に幻滅したというより、虚勢を張って気取りきった田舎侍のようなゴルフ場の姿勢や見栄っ張りの成り上がり者集団のようなゴルファーの姿に幻滅した。いま日本の若者がゴルフに何の魅力も感じなくなったのは幻滅感だけが脳裏にこびり付いているからに違いない。でも思い直して欲しいのは世界を見る目と世界から日本を見る目を持てば、私たちがどんなに恵まれた国に生まれ育ったかが分かる筈だから。日本は米国に次ぐ世界第二位のゴルフ大国であること。日本には英国に負けない武士道や武道、茶道や華道などの高い精神文化が備わっていること。パラダイムの転換を図れば日本のゴルフは必ず復活するということをルーク・ドナルドは教えてくれた。

 

ゴルフの国際化

スポーツの世界はどんどん国際化し、日本の国技である相撲さえも開放政策を採らざるを得なかった。その結果、蔵前国技館に日本人の優勝力士像がなくなった。しかし、やがて世界中から力士を目指して人材が集まり、世界中に大相撲中継が流されるようになるだろう。日本固有の文化を求めて世界から人が集まり、その情報がまた世界に流されていく。世界の人々は髷を結って着物を着こなし、礼儀正しく振舞う姿にサムライの文化を見るかもしれないし、武士道精神を理解するかもしれない。既に柔道は世界に広まりオリンピック種目までなっているが、日本の武道は世界の人々にとっても魅力あるスポーツ文化として受け入れられたからに違いない。武道だけではなく茶道も華道も世界中に広まっているが、日本の文化として広まったことが素晴しい。

 

ご承知のとおりゴルフはスコットランドに発祥し、アメリカはじめ世界に広まった。欧米カナダ豪州には文化として広まったが、日本には商業娯楽として広まり文化の香りが消えてしまった。日本の若者はゴルフに余り関心を持たなくなってしまったが、日本のゴルフの姿に文化性より不健全性を見てしまったからではないだろうか。「贅沢ゴルフ」「接待ゴルフ」「会員権破綻」など、若者の判断のほうが正しい。もしそうだとすると、日本のゴルフに文化性を回復させるには相当の時間と努力を必要とする。若者の目に魅力的に映るには見せかけの文化ではなく本物の文化でなければならない。それは理屈ではなく感覚的な魅力だから、衛星放送などによって世界の檜舞台で展開される国際試合を観ることによって変化するかもしれない。日本の選手が国際試合で活躍する姿は何よりも効果があるが、そのとき日本の選手が欧米諸国の選手に見劣りするようでは逆効果だ。身長や飛距離の問題ではなく風格や品格の問題なのである。

 

日本には長い歴史と伝統に支えられた固有の文化がある。その文化を創ってきた日本人を支えているものは武士道精神といわれ、日本人の風格や品格を形成してきたともいわれている。ゴルフが国際化していく中で、日本のゴルファーが欧米諸国のゴルファーに堂々と伍していくには、武士道精神で武装するのが手っ取り早い。なぜならば欧米諸国のゴルファーは騎士道精神で武装しているからである。武士道精神は一級の風格と品格を備えているから、世界中どこに行っても通用する。日本のゴルフには風格も品格もなくなってしまったが、日本のゴルファーはいつでも武士道精神によって風格や品格を備えることができる。野球やサッカーはサムライを名乗って国際試合に臨んでいるのだから、ゴルフもやがてサムライを名乗って国際化に臨んで欲しいものだ。

 

国際ゴルファー

サッカーの国際試合を観ていると日本人選手は男女とも国際選手の風格を備えてきたように思える。武士道ゴルフに憧れる私の目には最近まで「サッカーなんてクソスポーツ」に見えた。だって反則を取るためなら恥も外聞も無く何でも演技する姿は、サムライどころかスポーツマンシップのカケラもないではないか。柔道の国際試合で散々泣かされた日本選手にとって、またもやサッカーで泣かされると思っていたがオッとどっこい、チームワークというお家芸で本領を発揮するだけでなくサムライの風格を見せているではないか。相手の卑怯なプレーに対して平然とした態度で臨む姿は立派だし風格を感じる。サムライなら相手が卑劣な行動に出た瞬間、苦しい立場に追い込まれている相手の心情を読み取って惻隠の情を抱くことができる。だから益々冷静に相手を観察して冷静に対応することができるので、既にその時点で勝負あったということだ。

 

私たち日本人の多くは英語に対する言語障害を持っていて、英語を聞いた途端にヤバイという気分になる性癖がある。世界には何百カ国語もあるのになぜ英語だけヤバイと感じるのか不思議に思って考えてみると、英語だけが義務教育になっているからのようだ。他の言葉に出会っても全く動揺しないのに不思議と英語に出会うと緊張する人が多い。バリバリの国際選手として知られる伊達公子さんも以前は悩んだと聞くが、日本人が国際選手として活躍するには最初にこの障害を克服しなければならないようだ。私たちが国際ゴルファーとして世界中の人と交流しようと思ったら、何ヶ国語マスターすれば障害を克服できるか。「無理、無理!無駄な努力はやめた方がいい」。実は私たち日本人の多くは英語に対して言語障害者ではなく精神障害者なのだ。英語が上達しないトラウマにとりつかれた精神障害者と思った方が良い。

 

国際ゴルファーになるには英語を勉強するよりエチケットルールを勉強するに限る。エチケットルールは国際統一規則だから世界中どこに行っても通じる。世界中のゴルファーがそれぞれ自国語でルールブックを読んでいるが、内容は全く同じだから、どれだけ勉強しているか一緒にプレーすればすぐ分かる。
特に国際的に礼儀正しいと評価されている日本人は、エチケットを大切にしないと格下げされる危険があるから気をつけないと。言葉が通じなくても心はすぐ通じ合うもので、プレーヤーとして二流・三流でもゴルファーとして一流なら18ホール終わったとき「またゴルフをしましょう」といって握手を求められ連絡先を教えてくれないかと請われるはずだ。そのとき連絡先は英語で書く必要はない。ローマ字と数字で結構。

 

騎士道と武士道

「21世紀になって騎士道と武士道とは大層な」と言うなかれ。タイガー・ウッズと朝青龍の問題は現代社会を象徴するほど深い意味がある。ゴルフも相撲も商業主義に乗って人気絶頂だから、優勝者は金と名誉と名声を同時に手にする。勝者はスターとしてもてはやされるので、つい何をしても許されると思うかもしれないが実はそうではない。勝者がいれば必ず敗者がいるし優勝者の陰に無数の敗北者がいる。まさに「一将功なり万骨枯る」という世界なのだ。敗者の報酬は無残な敗北感だけで、決してスポットを浴びマスコミに書き立てられることもない。アメリカPGAツアーでは優勝賞金1億円余を狙って世界中から選ばれたトッププレーヤー140名余が出場するが、半分は予選落ちとして二日間で帰る。どんなにひもじくても水で腹を満たして次のチャンスを狙うしかない厳しい世界を生きている。相撲の世界も給料が保障されているものの、優勝者がほとんど良い所を独り占めしてしまう優勝劣敗の厳しい世界だ。

 

騎士道はキリスト教、武士道は神道仏教の影響を受けて900年ほど前から闘士の倫理道徳として礼節や惻隠を大切にして現在に受け継がれている。ゴルフは騎士道、相撲は武士道という伝統を守ってきたので、俄かに強者や勝者に王者面をされると伝統がボロボロになってしまう世界なのだ。ゴルフも相撲も伝統思想を守るか商業主義に徹するか苦渋の選択を迫られている点で共通している。伝統思想を守ろうとすると財政問題に直面し、商業主義に徹すると品格問題に直面する。この問題は王侯貴族でも庶民の世界でも何百年も続いたことだから慌てることはないが、デモクラシーの世界では庶民の良心が選択することになっているのだから、いずれみんなで答えを出せば良いではないか。

 

ゴルフも相撲も強い国際選手が次々と現れて国際色が益々強くなってきたが、グローバル世界の中で伝統はどうやって生き残ればよいのか。伝統は守るものでもあり破られるものでもあるから、やはり時代や商業主義と闘って一緒に生き残る道しかなさそうだ。先週フロリダのPGAナショナルコースで開催されたホンダクラシックはコロンビアのカミーロ・ビジェーガスが13アンダーで優勝したが、米国本拠地で開かれた試合の上位成績10名は英国人3人、韓国人2人、アメリカ、コロンビア、南アフリカ、スウェーデン、フィジー各1人だった。ゴルフも完全に国際競技になったことがわかるが、それにしてもアメリカ本拠地で開催され、日本企業がスポンサーになっているトーナメントに、日本からは誰も出場していないのはホンダさんじゃなくても寂しい話だ。武士道精神と品格を備えた若ザムライが日の丸を背負って世界に名乗りを上げるのはいつの日か待ち遠しい。

 

品格って何?

2010年は予想もしない幕明けとなった。ゴルフ界の帝王タイガー・ウッズが私生活上の不品行が原因で引退同様の状態になっているし、相撲界の帝王朝青龍も好ましくない言動が原因でとうとう引退させられた。二人とも稀な才能と実力を持つ現役ナンバーワンのトップアスリートにもかかわらず、何故このようなことになってしまったのだろう。二人に共通して言われていることは「品格に欠ける」ということらしいが、「品格ってナンだ」となると誰も歯切れが悪い。最近「○○の品格」という題名の本がいろいろ書店に出回っているが、品格がナンだと言われたら確かにどの本も歯切れが悪くなる。

 

ゴルフも相撲も歴史と伝統を持っていることで知られているがゴルフは騎士道、相撲は武士道という伝統精神のうえに成り立っている。騎士と武士はどう違うのかとなると「見れば分かるじゃない」となるし、ドッチが強いのかとなると「闘ってみれば分かるじゃない」となって話はシラケルが、騎士道と武士道の共通点は何かとなると話はススム。一言でいうと闘うことを宿命付けられた者の品格を追及していることだ。騎士も武士も個人的には何の恨みも憎しみも無いもの同士が、戦場では互いに殺しあわなければならない使命と宿命を負っている。そこに倫理道徳がなくなれば野獣以下の存在になることを恐れて、ギリギリの人間的尊厳として日常の礼儀正しさ、弱者敗者に対する優しさ、勝って驕らない謙虚さが求められるようになったのではないか。この人間的尊厳を「品格」といっているようで、欧米社会でも地位や身分にふさわしい品格を「ノーブレスオブリージュ」などといって大切にしているようだ。

 

タイガー・ウッズはコースではチャンピオンだが家に帰れば一人の夫。朝青龍も土俵では横綱だが外に出れば一人の若者。この当然の論理を常識とするデモクラシー社会を実現するのに、先人たちは苦労し血を流してきた。誰もが神の下では平等という大原則を忘れるとデモクラシーは成立しない。市場原理に従った品格なき弱肉強食の競争社会で世界中の人たちが今も苦しんでいる。だから今「国家の品格」「企業の品格」「国民の品格」「政治家の品格」「投資家の品格」と騒がしく人間的尊厳を取り戻そうとしているようだが、難しく言わなくても人間の良心を取り戻そうとしていると言った方が分かり易いかもしれない。
嬉しいことに日本の若ザムライたちは実に幅広い範囲で日本人らしく活躍しているようで、海外の人たちからも好感を持たれているようだ。スポーツマン、技術者、職人、事業家、PKO活動家から自衛隊まで評判が良いのに、なぜか政治家とゴルファーの評判がよろしくない。やはり品格の問題なのだろうか。

 

インデックスとスロープレート

従来ハンディキャップはクラブ内でのランキングを示す表象として各クラブの裁定に委ねられてきた。クラブでは地位や名誉を表彰する代名詞にもなっていたから、東京倶楽部と田舎クラブでは同じハンディキャップでも地位や力に差があるとされた。では東京倶楽部HP18の人がぺブルビーチ・スパイグラスヒルやサンディエゴ・トーリーパインを90前後で回れるかといえば100%無理。両コースともパブリックコースじゃないかと思うが、100以内で回れたら最高のできと思わなければならない。では「ハンディキャップってナンなんだ」という疑問が湧くが、私たちが認識しているハンディキャップとは、クラブ内だけで通用するランキングに過ぎない。では「JGA公認ハンディキャップってナンなんだ」といえば、日本国内だけで通用するランキングということになる。では「世界に通用するランキングがあるのか」というと、ハンディキャップ・インデックス-Handicap Index-となる。

 

これは1998年6月から定められた世界共通のグローバルスタンダードで私たち日本人だけが知らない。10年ほど前、ヨーロッパアマチュアチャンピオンになった男に「極東の島国に住む小人達にハンディキャップ文化は理解できまい」と馬鹿にされて、ニューヨークまで喧嘩しに行ったことがあるが、今思えばこちらが田舎ザムライだった。日本の若ザムライたちが米国に渡って、どんな悔しい思いをしているか想像しただけで断腸の思いだが、残念ながら勉強する以外に手はない。勉強し大和魂を鍛えて礼儀正しく基準に従って闘うことだ。日本人の英語ベタは最早グローバルスタンダードとして世界に通用するから、ヘラヘラすることなく寡黙なサムライを通せば良いし、騎士道ゴルファーは武士道ゴルファーを尊敬しているから、黙ってインデックスを示すだけでよい。

 

インデックスとはプレーヤーの実力を示す国際偏差値のことだから、インデックスを証明できなければノンゴルファーと思われても仕方がない。ゴルフはゴルファーとコースの闘いだから、ゴルファーの実力が分からないとコースは相手をして良いものかどうか困惑する。柔道場や剣道場で挑戦者の段位が分からなければ誰が相手をするか困惑するだろう。挑戦を受けるコースも実力を示す55から155までの段位を用意して待っている。これがスロープレートだ。コースは4箇所か5箇所の異なるスロープのティーを用意している。例えばブラック146、ブルー135、ホワイト124、グリーン113、レッド102というように。113は標準的難度を表わし数が大きくなるほど難しくなる。インデックス18.0ならホワイトは少々手強いが、グリーンティーは良いお相手となる。