石松時代の到来か

「両雄並び立たず」という言葉があるがライバル同士がお互いを切磋琢磨して両雄を大きく育てることがある。野球の王・長島、相撲の柏戸・大鵬、ゴルフの青木・尾崎、パーマーと二クラスがそうだ。いま石川遼と松山英樹がそんな関係になりつつある。年齢も同じだし、お互いが意識し尊敬し合っている。二人の関係は見ていてとても爽やかで微笑ましくもある。それでいてタイプも性格も正反対のように見える。石川は都会的で洗練された感じ、松山は野性的で無骨な感じが良い。石川が周囲に気を配り丁寧に受け応えしているのに対し、松山はマイペースで愛想がない。この二人は似たもの同士ではなく全く対照的だ。それぞれの個性を強力にかもし出しているにも拘らず、二人とも嫌味がない。それは演出されたり創作されたものではなく、生まれながらに備わったものが個性となって現れているからだろう。

日本の社会は共通性や画一性を大切にして成り立ってきた。社会全体が何処の切り口を見ても同じ顔かたちなので「金太郎飴」などといわれた。学校に通いだしたときから同じ服に同じ鞄、同じ教科書に同じ授業、違う服装をしたり違う教科書を開いていると先生に叱られた。人は顔かたちが違うように、性格も能力も関心もみんな違っているはずだが、みんな同じ教科を同じ時間づつ勉強させられていた。好き嫌いや得意不得意に関係なく皆同じ教育を受けて、その中で誰が一番平均点が高いかを競わされてきた。平均点の高い子を優等生といい低い子を劣等性という。同じ型にはめて教育するから画一教育ともいうが、いくらボールを遠く正確に飛ばそうがパットの名手だろうが、文部省の定めた教科の平均点が低ければ劣等性の烙印が押される。

石川や松山が優等生か劣等生か知らないが、そんなことに関係なく素晴しい若者を育ててくれた学校や両親に拍手を贈りたい。学校も家庭も金太郎飴を育てるのに戦々恐々としてきたが、できた金太郎飴はちょっと変な顔をしていると規格外とか出来損ないといって社会からはじかれてしまう。そもそも何で金太郎でなくちゃいけないのか、アンパンマンやタイガーウッズの顔じゃいけないのか、犬や猫じゃいけないのか。このようにひとつの顔ではなく、いろいろな顔を育てる教育を民主教育というはずだし、いろいろな顔を個性として受け入れる社会を民主主義というはずだ。政治経済・スポーツ芸能あらゆる社会に個性あるいろいろな顔が揃うと楽しいし、若者にとっても無限の可能性が秘められた社会が実現する。でも唯ひとつ必要な画一性として、エチケットルールを守る品性と感性を備えないと、たちまち堕落社会や無法社会に転落する。

 

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