ゴルフがeラーニングで学べるなんて夢にも思わなかった。40年前、ゴルフ教室を始めようと思って芝ゴルフ教室や陳清波モダンゴルフ教室を訪ねた頃、ゴルフに基本も教則本もないと言われてびっくり仰天したのがウソのようだ。誰に聞いても「ゴルフが巧くなりたければダンプ一杯ボールを打て」と言われ、「尾崎も野球からゴルフに転向しようと毎日1000球のボールを打っている」とも言われた。「習うより慣れろ」「教わるより盗め」「体で覚えろ」と、訊ねたプロ全員が口をそろえて言う。さらに「巧くなる秘訣なんかない」とも言い、「もしあったらオレはこんな所でレッスンなんかしてない」とも断言した。その言葉には妙な迫力があった。これらの言葉を裏付けるようにPGAレッスン部長の森田吉平プロは、「素振り10万回」を提唱して富士に森田道場を開いていた。
だが待てよ。ひょっとすると今でもゴルフはそうやって巧くなるものだと思っている人が意外に多いかもしれない。それが証拠に「飛球法則」「スイング原則」「生体原理」「スイングメカニズム」など基本の話を始めると、キャリアがある人ほどびっくりするより「ゴルフは理屈じゃない」という顔をするのだ。追い討ちをかけて「もう一度基本からやり直してみませんか」というと、「いまさら」といって手を横に振る。そういう人に限ってリヤカー一杯ほどもゴルフの雑誌や本を読んでいる。今さらという言葉の裏には「ゴルフなんて、いくら習ったり本を読んても巧くならない」という確信が満ち溢れているからだろう。さらに追い討ちをかけて「あなたのゴルフは所詮ザル碁かヘボ将棋なんでしょ?」というと、「なにをコノ野郎!」という顔をしてやっと真顔になってくれる。
実はゴルフ王国アメリカでも、40年前には同じようなことを言い合っていた。既にベン・ホーガン『Five Lessons』などの名著が出版されていたものの、いくらベン・ホーガンのスイングを詳しく解説されても、所詮ホーガンの真似などできる訳がない。その証拠にホーガン二世もホーガン再来も聞いたことがない。名手やプロのスイングを真似するのではなく、スイング原則に従ってマイスイングを形成しスクウェアシステムから9種弾道を自在に打ち分けたり、技術の基本パターンを修得する学習法開発は、40年前にNGFの手によって進められていた。学校授業にゴルフを導入するためには、学習能力や身体能力に係わりなく、誰もがSimple & Easyに習得できるものでなければならなかったのだ。
米国豪州カナダのプロや上級者達は、申し合わせたように基本が大切だという。
それは彼ら自身が基本を学ぶことによって、最短距離で現在の技量に到達したことが解っているからに違いない。その基本は言葉で伝わり文字で理解し視覚で納得できるものでなければならない。eラーニングとは三次元(3D)で学べることだから、それが好きな時に好きな所で手元のタブレットやスマートフォンで学べるのだから、まさに夢が現実になったということだ。
「ゴルフに基本はない」。この一言は私の頭にこびりついて離れなかった。私は学生時代に「柔道」「剣道」「弓道」「合気道」「書道」など手習い程度の指導は受けていたが、いずれの道場でも師範から「守破離を大切に」といわれ続けた。
「守」とは基本を忠実に守ること。「破」とは基本を破ること。「離」とは基本を超越することと教えられた。「書道」ではまず楷書を習い、文字のカタチが整ってきたところで行書を習い、草書は当分先の話だとされた。案の定、70歳にして未だに草書は満足に書けない。基本を離れ「動けば即技」の境地に達するのは容易なことではないことは理解できた。
1970年代の日米三強といわれた六人のスイングが全く違うのは、それぞれみな基本を超越した「動けば即技」の境地に達した達人たちだったからに違いない。達人の域に達するには毎日朝から晩まで何年間もボールを打ち続け、試合という緊張場面で失敗を重ねながら挫折を乗り越えていかなければならない。もし本当に基本がないとすれば初心者はその達人の技から何を学ぶというのだろう。ところが驚いたことに、ゴルフをしたことがない子供は、実に巧みにトッププレーヤーのスイングを真似するではないか。ならばそのスイングでボールが打てるかというと、その子もやはり初心者の球しか打てない。米国の学校体育にゴルフが導入されたとき、まず最初に基本テキストや基本マニュアルが作られたことが実に良く理解できる。
「女性ゴルフ教室」の指導現場はどんな状況だったか。いわゆる主婦といわれる中高年女性が14人打席に並んで、全員7番貸クラブでボールを打っているが、中には最初からかなり強いスイングができる人もいる。おそらくテニスか何かスポーツを経験したに違いないが、ボールが打てないことには変わりない。中に全くスポーツ経験がない女性もいたが、クラブを振る姿はおしとやかで日本舞踊のお稽古に近かった。ゴルフスイングという体の動きそのものが全く分からないうえに、クラブを振り回す握力がない。しっかり振ってと激励されると、よろけて3階打席から転落しそうになる。プロはあわてて飛んでいって体を支え、跪いてグリップの握り方を丁寧に教えるが、グリップを教えるとますますスイングが怪しくなってよろける。「指導に当たって女性の体には絶対に触れてはならない」という私の厳命は全く意味を成さないものになってしまった。
それから数年後、米国NGFの指導マニュアルに「スイング動作を知らない初心者に最初からボールを打たせてはならない。最初は何も持たずに体にスイング動作を覚えさせる。次にクラブを逆さまに持ってクラブヘッドの重さを感じさせないでクラブの振り方を覚えさせる。次にボールを打たずにクラブヘッドを振る感覚を覚えさせる」と書いてあることが分かった。そういえば学生時代に友達を投げ飛ばしたくて勇んで講道館に通ったら、三ヶ月は投げ飛ばされる稽古ばかりでうんざりしたが、この基本指導をゴルフでは『ドリル』といい、柔道では『受身』といって大切にしている。
大学を卒業してからゴルフを始めた私は、生涯一度も正式にゴルフを習ったことがない。会計法律事務所を辞めてゴルフ練習場の支配人になった私が最初に手がけた仕事は『月例競技会』と『ゴルフ教室』を開くことだった。練習場の役割は「上達したい動機付をつくること」と「正式なゴルフを教えること」だと考えたからだ。練習場でいくらボールを打ってもコースで正式なゴルフゲームをしなければゴルフプレーヤーにならない。正式なゴルフゲームとはルールに則った競技会に参加することだが、練習場ゴルファーには競技会に参加する機会がない。いつの時代も会員権を買ってクラブメンバーになる人は全体の2~3割程度にすぎないから、ほとんどのゴルファーが競技会に出る機会もないまま練習場に通って打ち直しの練習をしていたのである。
例えばバッティングセンターに通ってバッティングの練習をし、塀に向かってボールを投げてキャッチする練習をしても、野球というゲームに参加しなければ本当のベースボールプレーヤーにはなれない。壁に向かってテニスボールを打っている人も、実際にコートで相手とボールを打ち合ってはじめてテニスプレーヤーに成長する。相撲も四股を踏んだり柱にぶつかるだけでは相撲取りにはなれないし、それを一人相撲という。練習場でひたすらボールを打っている人を見ていると、バッティングセンターや壁テニス、一人相撲に汗を流している人と重なって、何とかしなければいけないと思い始めた。自分も支配人を引き受けたからには、正式にゴルフを学ばなければいけないと思って学校を探してみたが、東京でも芝の女性ゴルフ教室、赤坂と瀬田の陳清波モダンゴルフ教室ぐらいで学校といえるものはなかった。それまで英語、柔道、書道、会計、法律いずれを学ぶにも、テキストがあり教師がいて基本から順序良く指導してくれたものだ。ゴルフも奥が深いし難しいから、当然のこととして専門学校があり基本体系指導してもらえるものと思ったのである。誰に聞いても専門学校どころか、ゴルフは習うものではなく慣れるものだという。「そんな馬鹿なことはないはずだ」と思ったのが運の尽き。ゴルフの基本体系をまとめるのに30年の歳月を要するとは、その時点では夢にも思わぬことだった。
月例競技会を始めてまずルールの勉強から取り組んだが、次にすぐハンディキャップの問題が浮上した。公平適正なハンディキャップを算出するには正式な計算規定に従わなければならない。USGAハンディキャップマニュアルを読んでスコア台帳を作成し、練習場を閉めた後、そろばんを使って一人一人ハンディキャップ計算をするのは時間のかかる仕事だった。過去のスコアデーターから規定数の直近上位ディファレンシャルを検索し、その平均値の96%を整数にしてハンディキャップとする計算規定は、コンピューターには優しいがそろばんには厳しい。1970年代に入って米国は既にコンピューター社会が始まり、科学技術ゴルフの探求が始まっていたことを知るのは、それから大分経ってからだ。
「ゴルフは習うもんじゃない、慣れるもんだ」。ずっと昔からそう言われ今もそう信じている人は意外に多い。そういう人は「ゴルフの基本て何ですか」と聞かれてほとんどの人が「うーむ」と言って腕組みをする。教育の基本は昔から「読み書きそろばん」と言われてきた。現代は「ケータイパソコンネット」と言うべきかも知れない。小学校に入る前からケータイを持たされ、小学校に入るとすぐパソコンとインターネットの使い方を習う。21世紀最先端技術で武装した情報処理手段の使い方を習うのは凄いことだとは思う。しかし問題は最先端技術を使って何を習うかがはっきりしていないことだ。
「ケータイパソコンネット」があれば世界中の古典知識から最新情報まで入手できるし、知らなかったことが即座に分かる。そのスピードは驚くべき速さで「インターネットは学習の高速道路」と言われるとおりだ。だから大人たちは自分たちがうまく使いこなせない「三種の神器」を子供たちには早くから使いこなせるようにと教育基盤に導入したのだろう。しかし評価はさまざまだ。子供たちは三種の神器にはすぐ慣れたが、何を習ったらいいか分からないから、興味本位に習わなくていいことを習い、知らなくていいことを知ってしまった。お陰で子供たちは早熟現象を起こし「何でも知っているが何もできない人間」に育ってしまったようだ。
早熟現象が良い方に出た例も多い。スポーツや囲碁将棋の世界では10代のトッププレーヤーが続々と誕生している。これはメディアの進化によって子供の頃から世界的トッププレーヤーの姿を見ることができるからだろう。「子供は物真似の名人」と言われるが一流の業を見ることによって、どんどん吸収できるからに違いない。ケータイパソコンネットのお陰だろう。「百聞は一見にしかず」とはこのことで、まさに何を習うかがとても重要なんだと思う。「習うより慣れろ」と言ってがむしゃらにボールを打つ人がいるが、「ハタチ過ぎれば唯の人」がいつまでも子供染みたことをしていては進歩がない。ハタチ過ぎたら何を習うかハッキリさせて、一歩一歩基本を習うべきだ。それにはケータイパソコンネットがとても役に立つ。旅をするにも初めての家を訪ねるにも事前にケータイパソコンネットで調べれば驚くほど楽だ。モノを習うのは旅をするのと一緒だから、基本ルートを調べておけば無駄足を踏んだり遠回りしなくて済む。特に高齢社会を迎えて60歳からゴルフを習う人も多いはずだから、ケータイパソコンネットを使えば老後の人生が豊かになる。ウェブ上に立ち上げたゴルフ大学で全国の高齢者が学ぶ日はそう遠くないないはずだ。
「基本が大切」と誰もが言う。「では基本は何か」と言うと誰もが口ごもる。
なぜなのか。基本を学んだ経験がないからである。昔は「読み書きそろばん」が教育の基本とされていたが「読み」とは世界の古典を読んで道理を理解すること。「書き」とは思考を文章で表現すること。「そろばん」とは物事を数値で把握することだったようだ。ゴルフで言えば「読み」とは先人の名著や基本テキストを読んでゴルフの原理原則を理解することであり、「書き」とは自分のスイングやプレースタイルで確立することであり、「そろばん」とはスコアデータによってゴルフを進化させることだろう。
基本は先人達の努力や研究の集積だから、私たちの浅い知識や経験の遠く及ぶところではない。三ヶ月で学べることが二年も三年もかかり、三年で習得できることが一生かけても叶わない。だから教育環境のない社会で育った人の人生は損をする。震災後、日本人が世界で再評価されるようになったのは、日本には早くから教育環境が整っていたからに違いない。特に明治維新によって四民平等に「読み書きそろばん」が学べるようになって、私たち庶民に至るまで、欧米列強諸国の人やホワイトアングロサクソン民族といつでもスクラッチ勝負できるまでに教育されたお陰だろう。
それなのに日本のゴルフに限ってなぜ教育環境が整わなかったのか、私にはどうしても理解も納得もできない。今年になってようやくNPO法人日本ゴルフ大学校が認可されたが、法人格という箱ができただけでまだ中身はない。中身を詰めるのに少し時間がかかるだろうが、この箱は大切にして今度こそ本物の中身を詰めなければいけないと思う。中身に賞味期限切れや腐りかけの物が入っていれば、中身全体が腐ってしまう。ところが、古典や基本は決して賞味期限切れでも腐りかけではなく、どんなに時代が変わっても人の骨肉を構成する基礎養分であることに変わりない。目新しいもの、高度なものが私たちを成長させてくれる訳ではなく、現代病や成人病の原因になる場合だってある。
日本のゴルフ界は低迷し続けている。全国津々浦々にゴルフの「読み書きそろばん」が学べるゴルフ塾ができるには、どれくらい時間がかかるだろうか。日本という国では物事がなかなか動こうとしないが、一端動き出したら速いともいわれる。明治維新も戦後復興もそうだった。震災復興もそうあって欲しいが、案外とゴルフの復興も東北から火の手が上がるかもしれない。礼儀正しく堂々とした武士道ゴルフやサムライゴルファーという姿で。
基本を定め定義付けるには多くの時間と労力を要した。1960年代に米国NGFが全米の学校体育授業にゴルフを導入するに当たって、多くの優れた高校大学ゴルフコーチやLPGAのベテランプロが教育コンサルタントとして集められプロジェクトチームが組織されている。この時代はベン・ホーガン、バイロン・ネルソン、サム・スニードからアーノルド・パーマー、ジャック・ニクラウス、ゲーリー・プレーヤーに主役が移ろうとしていたときである。その時代のトッププレーヤーたちから普遍の共通点を見出し、基本を定義づけることが如何に困難なことだったか想像してみれば分かる。
例えば近代スイングの原形と言われる前の三人は、いずれも非の打ち所のない完璧とも思えるスイングの持主だったが、ホーガンはフェードボール、ネルソンはストレートボール、スニードはドローボールを持ち球としていた。後の三人は米国の黄金時代を築いたが、三人のスイングは個性あふれるものであったが共通点は見出しにくい。帰納法によって共通点を見出し、テイラーの科学的管理法にしたがって共通点を分析することは、そう簡単なことではなかったはずだ。それだけにゲーリー・ワイレンがオレゴン大学で『法則原理選択の理論』を書いて博士号を取得したのは大変に意義深い。
同時代の日本のトッププレーヤーとして杉原輝男、青木功、尾崎将司の三人を上げることができるが、この三人のスイングから共通点を見出すことは至難の業である。名を上げた内外のトッププレーヤー達は、いずれも個性的スイングとして完成しているからこそ、時代のトッププレーヤーとして一世を風靡していた訳で、常識的には他のプレーヤーと共通点などあろうはずがなかった。他のプレーヤーの多くは、トッププレーヤーの個性を秘訣と思って必死に盗み取ろうとしていた訳だから、誰もが共通点など見向きもしなかったはずだ。
このような時代背景の中で基本の探求は進められている。基本とは名人達人の業でありながら、万人に対して普遍的に適応できる技術でなければならない。万人とは年齢性別能力において千差万別を言い、普遍的とは誰に対しても適応できることを言う。だから基本とは初心者に対してだけではなく、名人達人に対しても基本でなければならない。基本をおろそかにする者は決して名人達人の域に達することはないし、名人達人と言えども基本をおろそかにする者はやがて凡人に舞い戻り、決して元の名人達人に戻ることはできないと言われている。タイガー・ウッズほどのプレーヤーと言えどもこの原則から逃れられない。
基本は昔からあったわけではない。永年にわたりゴルフに基本はないと言われ続けてきた。理由は簡単で、1970年代まではクラブが手作りの手工芸品でだったためにスペックがバラバラで、クラブ毎にスイングを変えなければならなかったからである。ほとんどの人が親か先輩に譲ってもらったクラブを後生大事に使っていたから、そのクラブに慣れるまで練習場に通ってボールを打ち、そのクラブに合ったスイングづくりをしていたのである。クラブセットも同一メーカーとは限らず複数のメーカー品で構成され、各クラブスペックはバラバラなのが当たり前だった。だからどうしても打てないクラブが何本かあって、得意なクラブと不得意なクラブがあるのは当然とされた。今でもプロゴルファーのプロフィールには得意クラブ○○と書いてあるのはその名残りである。
だいたい達人のクラブは、あちこちグラインダーで削った後や鉛が張ってあって、戦場帰りの傷痍軍人のようだった。クラブを見ればその人の腕前が分かると言われたが、きれいなクラブを持っている人は自分のスイングができていないか、もったいなくて削ることができなかった人である。ケニー・スミスによってバランス計が作られたとき、試しに名手ボビー・ジョーンズの使用クラブを計ってみたところ、全てのクラブが同じバランスだったという伝説がある。それにヒントを得たせいか、ケニー・スミスは「貴方だけのクラブをつくります」と宣伝していたが値段はめっぽう高かった。しかし、ケニー・スミスを使っている人に名手はいなかったように思う。自分の名前が刻まれた高価なクラブを切ったり張ったりできる人など、めったにいなかったからだろう。
1976年ゲーリーワイレンが、PGAマガジンに「ボールフライトロウ」を発表してから米国に本格的なスイングイノベーションが起こり、ワンスイングの探求が始った。ワンスイングとは各プレーヤー固有の一定スイングという意味である。記憶では私たちが最初にワンスイングを見たのは、NHKが放映したジャック・ニクラウスの特集番組からである。ドライバーからウェッジまで全く同じスイングテンポで打つ二クラスの技術は基本と言うより芸術だった。なぜドライバーからウェッジまで全てのクラブを同じスイングで打てるのか、多くの人が唖然として見つめたものである。言うまでもなくワンスイングを可能にしたのはクラブ製造技術の進歩であるが、あくまでも工業技術の進歩で規格大量生産が可能になったからある。同じスペック性能のクラブを大量に製造することができるようになったからといって、決してゴルフが進化したわけではない。基本に則ったワンスイングが完成していなければ規格工業製品は役に立たない。
松山英樹が太平洋マスターズに優勝し、石川遼が優勝の花道を出迎えた。暫らく明るいニュースに乏しかった日本の男子プロゴルフ界に、若者が爽やかな話題を提供してくれたが、日本のゴルフ界は稀に見るこの二人の逸材を大切に育てなければならない。ゴルフに限らずどんな世界でも逸材は存在し、若くして才能の片鱗を見せるものは多い。特に体力勝負のスポーツ界ではその傾向が強いが、なぜハタチを過ぎると唯の人になることが多いのか。低迷し続ける日本のゴルフ界は、この逸材を決して唯の人に終らせてはならないのだ。
「神童もハタチ過ぎれば唯の人」とはよく言われることだが、実例は周囲にいくらでもある。反対に「大器晩成」とも言われるが、いま男子プロゴルフ界はアラフォー世代に支えられている現実がある。ジャックニクラスがシニアツアー入りしたとき「私のゴルフはまだ進化していると思う」といった言葉を思い出すが、それは負け惜しみでもなく実感だったに違いない。二クラウスのあと帝王の座を継いだトム・ワトソンが、還暦を迎えた年に全英オープンでプレーオフになるまで優勝を争ったことは記憶に新しい。
ハタチ過ぎて成長が止まるのを「早熟現象」ともいうらしいが、肉体的な成長が止まることが原因か、精神的に成長し始めることが原因か良く分からない。
両方が原因になっているとも思えるが、両方が原因になっているとすれば肉体と精神の成長は二律背反してしまう。それではスポーツ選手の人間的な成長はありえないことになってしまうから、この考えは間違っている。人間的な成長は艱難辛苦という人生トレーニングを受けないと得られないと言われるが、早熟現象が起きる人はハタチまでに大成してしまい、人生トレーニングを受ける機会を失ってしまったことが原因なのだろうか。
確かにタイガー・ウッズは尊敬する父親の保護を失ったら、厳しい人生トレーニングに耐えられず人生そのものを破綻させてしまった。反対に横峰さくらは父親の手を振り払って自ら人生トレーニングに飛び込んだら、どんどん成長し始めた。ゴルフが人生ゲームに例えられるだけに、この二人は対照的な存在だ。石川遼も松山英樹もこれから人生トレーニングが始ることになるが「では基本とは何か」という課題が生まれる。松山英樹は東北の人に励まされてマスターズに出場しようと決意したそうだが、最初の人生トレーニングとして最高の基本プログラムを与えられたのではないだろうか。見ていて成長を感じる。
「基本とは何か」と聞かれて的確に答えられる人は少ないだろう。いや世の中に一人もいないと言うべきかも知れない。「秘訣は基本の反復練習」というものの基本が必ず成功を保証する訳ではない。成功者が振り返って無駄な努力を取り除いた後に残ったものが基本といわれるもので、だったらその基本だけを繰り返していたら、もっと早く成功したかといえばその保証もない。なぜならば成功者は成功より失敗から多くを学んでいるからである。成功者の経歴は失敗の経歴といった方が早いほど多くの失敗を積み重ねてきている。言い変えれば成功者は多くの失敗を乗り越えたから成功したと言える。
失敗の積み重ねの量でいえば、私たちのゴルフは充分に成功者の条件を備えているかもしれない。しかし成功者になれないのは失敗から多くを学んでいないからである。ゴルフの達人は目の覚めるようなショットなどめったにしない。しかし目を覆うような失敗もめったにしない。私たちのゴルフは時々目の覚めるようなショットもするが、それ以上に己の目を覆いたくなるようなミスショットを繰り返す。ミスショットデパートみたいな人を見かけることがあるが、そういう人に限って常に目の覚めるようなショットを夢見ているようだ。
よくゴルフは「ミスゲーム」ともいわれる。そして頻繁に「ナイスミス」や「結果オーライ」がうまれる。私たち凡ゴルファーは、時たま生まれる目の覚めるようなショットを「実力」と思い、目を覆いたくなるミスショットを「偶然」と思いたい。本当は逆で目の覚めるようなショットが「偶然」で、目を覆いたくなるミスショットが「実力」なのだ。だからゴルフは止められない訳で、素直に自分の実力を認めたら、もうとっくの昔に多くの人がゴルフを止めている。
『己を知らず、敵も知らざれば百戦これ危うし;孫子兵法』ということになるが、こういう危ういゴルファーに支えられてゴルフ界は成り立っている。
石川遼が非凡なのは、いつも試合後のインタビューに答えてミスショットや失敗の原因を冷静に語り、反省して出直しを誓う点にある。常に失敗から学ぼうとする姿勢こそ成功者の条件であるなら、彼はまだまだ進化する可能性を秘めている。彼はワールドツアーに出場して屈辱的な敗北や失敗を重ねてきたが、それらの失敗からどれだけ多くを学んだか今後が見物だ。そうなると基本とは失敗から多くを学んで原因を究明し、同じ失敗を繰り返さないよう深く反省することといえる。「他人の不幸は私の幸せ」という言葉もあるが、本当のところ他人のミスショットは実に楽しい。だったら我ら凡ゴルファーは人を喜ばせる秘訣を先天的に心得ている天才と言えるのではないか。
「秘訣は基本の反復練習」というと、なぜ私たちはがっかりするのだろう。一口で言えば退屈でつまらないからだ。私は高校生のとき卓球部に入ってマラソンと素振りの毎日にウンザリし、大学生のとき講道館に通って受身と打込の反復にガッカリした経験がある。途中で嫌気が差し浮気を起こして近所の合気道塾に通ったら、道場師範に「武芸の道は守破離」と言われた。先ずは徹底的に基本を守り、熟して基本を破り、離れて「動けば即ワザ」の域に達するという意味らしい。武芸はすべて礼にはじまり礼におわる。礼を忘れれば「即ゲンコ」だし稽古は徹底的に基本の繰り返しだ。基本の型が身について技となり、礼が身について人をつくるのだそうだ。若さゆえ「古臭い指導法」と思っていたが、アメリカの科学的指導法を研究するにつれ、日本の伝統的指導法が案外と科学的であることに気が付いた。
アメリカの指導法は論理的であり、日本の指導法は画一的である。アメリカの指導員は目標やプロセス、原理や原則を説明して学習者の納得を得ようとする。日本の指導員は問答無用「オレがやってきたようにオマエもその通りやれ」と強制する。しかしどちらも言わんとすることは「基本の反復こそ秘訣だ」と。
なぜならば基本とは先人たちが試行錯誤、紆余曲折して辿り着いた目標に至るまでの最短距離であり、最適方法だからである。日本の伝統武芸は歴史が長いから無駄が全て取り除かれ、もう改良の余地がないほどワザが集約されている。どこにも隙がなく不備がないから黙って従わざるを得ない。結局、黙々と基本を反復した者が達人になるシステムになっている。なんのことはない『テイラーの科学的管理法』と同じではないか。基本を繰り返し練習することをアメリカでは局面ごとにドリル・プラクティス・エクササイズなどに分けて総体的にトレーニングといっている。講道館では局面ごとに受身・打込・乱取などに分けて総体的に稽古といっていた。
ゴルフも歴史の長さにおいては日本の伝統武芸と変わらない。日本の教育現場は早くから伝統武芸を教育課目に導入してきたが、ゴルフは導入しなかった。欧米人にとってゴルフは西洋精神を支える伝統技芸だから、ゴルフを教育基盤に導入し、基本を反復訓練して人間の魂を形成した。日本人にとって武道は東洋精神を支える伝統技芸だから、武道を教育基盤に導入し基本を反復稽古して人間の魂を形成してきた。どちらも「礼にはじまり礼におわる」ことを共通の基本とし、人間形成の秘訣としてきたようだ。