我流の終焉

不思議なことにゴルフの世界では未だに我流が主流となっている。我流とは誰にも習わずに自分で独学自習してきたことをいうが、最近アチコチに「俺流ラーメン」とか「俺流イタリアン」などの店を見かけるようになった。我流と俺流はどう違うか、良く分からないが考えてみる。街のおじさん達がいう我流は独学自習というには少々おこがましく、せいぜい週刊誌や新聞記事を読んで覚えた「見よう見まね」と表現する方が正しい。我流は自分の技術やスイングに対して全く自信を持っていない点で共通している。わが子や友人に「教えて欲しい」と頼まれると必ず逃げるのに、奥さんにだけは厳しく伝授しようとするのも不思議な共通点だ。しかし最近の奥さんは夫に盲従することなく夫を客観視する自覚と能力を持ち合わせているから「イヤよ、そんなカッコ悪いスイング!」と情け容赦なく拒絶する。こうして我流ゴルファーは次々と孤独に追いやられ、やがて絶滅する運命にあるようだ。

 

青木功や藤田寛之、ジム・ヒューリッククラスになると立派に俺流が通用する。「真似してごらん」といわれても手も足も出ないからだ。独学自習どころか孤軍奮闘、艱難辛苦して己の技を磨いてきた達人の技は見よう見まねで学べるわけがない。杉原輝雄や樋口久子、ベンホーガンやアーノルドパーマーも同じだ。
この人たちは二度と世に現れない伝説の達人として語り継がれることはあっても、続々と二世三世が現れることはないはずだ。だから「我流は真似したくない技」、「俺流は真似のできない技」と定義することができる。日本のゴルファーのほとんどが我流で育ったとすると日本のゴルフ産業の将来は暗い。ひとり一人のゴルファーに後継者がいないことになるから、やがてゴルファーが絶滅しゴルフ産業が崩壊することになる。経済産業省が発表したゴルフ産業崩壊のシナリオは現実論となって立証されてしまうのである。

 

ではどうすればよいか。次々と二世三世が現れ後継者が増加するには、誰でも真似できる技が確立しなければならない。この誰でも真似できる技を「基本」といい「我流」や「俺流」と明確に区別している。基本は誰でも真似できる技であると同時に、修行して習熟すれば名人達人の域まで到達する技でもある。ではどのようにして基本は確立してきたのか。伝統技術を伝承することは近代社会にとって重要な課題だった。一代で終わる技術や芸術は伝説となって残ることはあっても文化や文明として残ることはない。文化の発展や文明の発達は伝統技術が祖父から親、親から子供、子供から孫に伝わって何代にも亘り伝承され多くの人に普及して実現する。英国に発祥した伝統ゴルフは欧米豪州に伝わり誰でも真似のできる正統ゴルフとして世界に普及してきた。だから我流や俺流を脱して正統ゴルフを学び、多くの人に伝えられてゴルフは発展する。

 

藤田寛之というプロ

今年度賞金王に藤田寛之(43)が輝いた。同時に世界ランキング43位をキープしてマスターズ出場権を獲得した。谷口同様、以前から注目していたアラフォー実力プロだが、ここまで来ると注目を超えて尊敬に値する。用品用具や分析機器が進化したうえ、情報が豊富になった現代は経験の乏しいスターを次々と排出する。そんな中で衰える肉体や精神をコントロールしながら経験を生かして最大限のパフォーマンスを発揮するベテランプロの味は、人生に例えられるゴルフの本質を表し、オールドファンを魅了して止まない。米国PGAツアーではフィル・ミケルソン、アーニー・エルス、ジム・ヒューリック、スティーブ・ストリッカーらがベテランプロとして上位に名を連ねる。

 

ご本人には内緒だが「よくぞあの顔であの体であのスイングで、そしてあの歳で」とびっくり仰天の連続である。藤田プロの顔はテレビや雑誌で嫌というほど見せていただいたが、お世辞にもスター性があるとはいえない。しかし弾道を追う厳しい顔、鋭い眼に妥協の余地はない。一点を見続けてきた者だけが持つ小野田少尉や杉原輝雄と同じものである。米国PGAツアーに160センチ級はほとんどいない。しかし、米国メジャートーナメントで4日間戦うには相当の技術、体力、気力が必要である。以前にPGAナショナルブラックティーでプレーしたことを書いたが、私ごとき凡プレーヤーに太刀打ちできる相手ではない。ティーショットが池を越えない、フェアウェーに届かない、ラフから2,30ヤードしか飛ばない、いくら打ってもグリーンに届かない、バンカーから容易に出ない、2パットで収まらない。七難八苦とはこのことだ。

 

私は最初、藤田プロを見てなんと不器用なスイングだろうと思ったが、注目し続けるうちに鍛え抜かれた職人の技だと思い始めた。杉原輝雄は両腕でつくられたスクウェアをトップからフィニッシュまで崩さずにスイングコネクションを保っていたが、藤田寛之は両腕でつくられたトライアングルをトップからフィニッシュまで崩さずにスイングコネクションを保っている。あのスイングをするには全身が相当鍛えられていなければ無利だ。全身のパワーが集中してボールに伝わるメカニズムは科学的に解明されていない。野球でいえば、さほどスピードはないのにホームランを打たれず、頻繁にバットを折るような重い球に近いのではないか。PGAワールドツアーは環境や気象条件の異なる世界を舞台にして試合が行われるから、どんな条件下でもコンスタントに自分のパフォーマンスを発揮しなければ勝負にならない。そのうえ言い訳は一切通用しない。

 

一般にスポーツ選手は社会行動には不器用だが身体運動には器用な人が多い。特にプロスポーツ選手は動きそのものに器用さや華麗さがあり「動けば即技」を感じさせるが、藤田寛之にはそれがない。アマチュア名手でクラブデザイナーの竹林隆光さんの師匠が「本物のゴルファーは普段決してゴルファーに見えないものだ」といわれたそうだが、その意味からすれば藤田寛之というプロは本物のプロに違いない。どんな不器用そうな動きも、鍛え抜かれた正確な反復再現性があれば、それは素人を寄せ付けないプロの技であり芸術ですらあるからだ。改めて来年は藤田寛之というプロをじっくりと鑑賞させてもらおう。

 

日本の実力

今週から始った世界マッチプレー選手権に日本のトップスリーが挑戦して、三人とも初日一回戦で敗退してしまった。トップスリーとは池田勇太、石川遼、藤田寛之を指す。先週リビエラで開催された「ノーザントラスト」でも池田勇太一人がかろうじて予選通過したものの、石川遼、今田竜二の二人は予選落ちしている。この試合は日本人オーナーのリビエラC.C.で開催されたが、日本人選手三人が予選二日間を同じ組で回るという世にも珍しい光景が観られた。普通なら国際試合で同じ国の選手だけで競技することはありえないが、なぜこういうことになったのか理解に苦しむ。大相撲で八百長試合がとり沙汰されているときだけに、日本選手が勝っても負けても後味の悪い思いが残るはずだ。

 

日本のゴルフ界はもう20年以上も鎖国体制をとっているから、外国と大きなカルチャーギャップが生まれてしまった。何も知らずに日本に生まれ育った若者たちは、祖国の誇りを日の丸に託して武者震いしても、想いと現実が余りにも違いすぎて悲劇を繰り返すことになる。先週封切になった『太平洋の奇跡』を観ても、若き日本兵の祖国を想う愛国心や忠誠心と、権力の中枢にある指導者たちとの間にあるギャップは、悲哀を超えて歴史の悲劇としか表現のしようがない。指導者の無知と無責任を全て若者の肩に背負わせ、大和魂だけで突撃させても玉砕の悲劇を繰り返すだけである。日本兵が如何に勇猛果敢であったかは歴史の事実が証明している。権力の中枢にグローバルな視野があれば、日本の若者はもっともっと活躍するに違いない。

 

それに引き換え韓国人プロは国際舞台で目覚しい活躍をしているが、彼らの祖国は国家存亡の危機にあって、国境に異変が起これば祖国に舞い戻り、クラブを捨てて銃を取るか、家族を連れて国外逃亡を図らなければならない。今を失えば明日はないかもしれないという切実な思いが、試合に取り組む姿勢やプレーの姿に表れている。逆境に育った彼らの強さの秘密は何か是非とも知りたいところだが、聞くところによれば彼らの大多数はクリスチャンだそうだ。祖国愛や自己実現という偏狭な価値感ではなく、人類愛や平和実現という遠大な価値感に支配されているとすれば、グローバル化する現代を悠然と生きる姿勢は当然とも思える。

 

日本の若きサムライ達に伝えたい。軽薄な商業娯楽主義に毒されたり、偏狭な鎖国体制の殻に閉じこもることなく、勇猛果敢に世界に羽ばたいて欲しい。
ただし、大和魂や武士道精神で武装することを忘れてはならない。そうすれば、やがて日本の若サムライ達が世界各地で勝利の勝鬨を挙げることは目に見える。

 

天の采配

2010年度トーナメントシリーズが終了した。終ってみればそういうことかと思うことも、結末を見るまでは実にはらはらする。だから闘うものも観戦するものもエキサイトするし興行としても成り立つわけだ。最初から結果が分かっていれば、誰もお金や時間を使って観戦などしない。かくいう私だって今年度の賞金王は誰になるのか、水曜日からそわそわしていたことは否定できない。
そしてほとんどの人が石川遼か池田勇太のどちらかが優勝して今年度賞金王に輝く構図を画いていたのではないか。石川遼の連覇に期待しながらも、進境著しい池田勇太の優勝もありうる。勇太自身、相当意識して優勝宣言に近い発言をしていたから、なおさら多くの人が二人の優勝争いを予想していたはずだ。

 

天(神)の計画は大方の見方と異なり、最終戦優勝争いはアラフォー藤田寛之と谷口徹の一騎打ち。賞金王は韓国選手キム・キョンテに決定した。戦前の予想と異なり石川遼と池田勇太の名はなかった。最終戦は20歳前後の若手ホープ同士の一騎打ちに期待が寄せられたが、40過ぎのオヤジ同士の一騎打ちとなりました。藤田の優勝スピーチが印象的だ。「同世代に自信と勇気を与えられたら嬉しい」とは謙虚にして切実な言葉である。40代というのは社会的責任が重くのしかかる割に社会から軽くみられ、上からも下からもプレッシャーをかけられる辛い世代なのだ。私も過去の経験上、藤田の言葉が身にしみて分かる。

 

世の中はいつも矛盾に満ちていて、世界的景気低迷の中で20歳前後は就職難と失業に苦しんでいるし、40歳前後はバブル後遺症の責任だけを一身に背負わされている。石川遼や池田勇太の同級生たちは浪人となって最低賃金確保のため、足を棒にして毎日就職活動をしているだろう。藤田寛之や谷口徹の同級生たちは組織の中間管理者として、また一家の柱として身も心もすり減らして日夜働いているに違いない。これはトーナメントプロと一般社会人のどちらが楽な仕事かという比較の問題ではない。人生の選択の問題だから全て本人の取組姿勢に掛かっていて、結果責任は自分で負わなければならない点は同じだ。

 

韓国プロの成長は著しく、男女とも日本の賞金王を射とめた。彼らの日常姿勢からこの結果は予想できたが、現実を前に改めて考えさせられる。南北国境間にある一触即発の緊張感に包まれた日常生活は、いつ戦陣戦乱の渦に巻き込まれるか分からない。トーナメントに出場している今は二度と訪れないかもしれないし、来年はないかもしれない。韓国プロによる賞金王男女制覇の快挙に神の意思や天の采配を感じて厳粛な気持ちになったのは私一人ではないはずだ。心底から「おめでとう。今を大切に!」と祝福したい。