ゴルファーとプレーヤー

私は永年ゴルフの世界にいながら「ゴルファー」と「プレーヤー」を意識的に区別してこなかったし、言葉の意味についても明確に定義してこなかった。
タイガー・ウッズや朝青龍の問題が起きて「はてな?」と真剣に考え出したのが正直なところだ。かつて「ゴルフ人口」を定義するのに「練習場ゴルファー」と「コースプレーヤー」と無意識に使い分けていた時期があるが、厳密に定義したわけではない。練習場にはコースに行った経験がない人も数多くいるだろうという意味で漠然と「練習場ゴルファー」といっていた。真面目に考えると「ゴルファー」と「プレーヤー」は明確に区別しなければいけない気がする。

 

普段ゴルフコースにはプレーする人しかいないから、全員プレーヤーといっても良さそうだし、全員ゴルファーといっても良さそうな気がするが、トーナメント会場となったコースでは、選手だけがプレーヤーでギャラリーはゴルファーも非ゴルファーもいる。最近、石川遼のまわりにはケータイカメラを持った「追っかけおばさん」がいっぱいいるが、どう見てもゴルファーには見えないもののコースに行った経験はある人たちだ。コースだけではなくテレビや雑誌の前にもゴルフの経験はないが、私以上にゴルフ界に詳しい人たちがいる。
インターネットの世界にはクラブもボールも触ったことがない「ゴルフオタク」が相当いるらしいが、実態については私もまだ良くわからない。このような人たちは「プレーヤー」ではないが「ゴルファー」と呼ぶべきだろうか。

 

国技館に行けば「相撲取り」と「相撲ファン」はすぐ区別できる。ちょんまげ結ってふんどしを締めてるいる人が「相撲取り」で、その他の人は全員「相撲ファン」だ。最近は「女性相撲ファン」がいっぱいいるが、ほとんどのひとが相撲経験はないはずで、横綱審議会の委員を務めた内館牧子さんだって相撲を取った経験はないと思う。でも内館さんの朝青龍に対する見解は立派で「アスリートとして尊敬できても横綱として認め難い」といって伝統を重視された。さすがに大学院で「大相撲の宗教学的考察」という論文を書かれただけのことはある。米国ゴルフ協会やマスターズ委員会がタイガー・ウッズに対して明確な見解を表明できなかったことに較べて実に立派だったと言いたい。
歴史と伝統のある日本の大相撲と歴史の浅い米国のゴルフとの差が歴然とした気がするが、本来なら英国に発祥するゴルフは大相撲以上の歴史と伝統をもっているし、宗教学的に考察したら「プレーヤーとしては尊敬できてもゴルファーとして認め難かった」はずである。マスターズ創設者のボビー・ジョーンズはプレーヤーである以前に、キリスト教騎士道精神を持った立派なアマチュアゴルファーとして聖人の冠を付された人だからである。

 

成長著しい韓国プロ

2010年マスターズで韓国勢の活躍は素晴らしかった。アンソニー・キムは米国籍ではあるが、彼も含めると上位10名中3名が韓国人だった。彼らは強いだけでなくプレーマナーの良いことと、常に堂々としていることに感心させられる。彼らは何処で何を学んであのようなプロになったのか興味は尽きないが、K.J.チョイなどは敬虔なクリスチャンで、ボビー・ジョーンズと同じように常に「祈りの人」であることは良く知られている。そのK.J.チョイが米国中から集中砲火をあびた手負いの虎・タイガー・ウッズを四日間にわたり影武者のように支えた姿は、まさに「騎士道精神」を感じさせる美談としてマスターズ史に残るのではないか。

 

偶然か神の哀れみか、傷だらけのタイガーは米国ツアーでも屈指の人格者といわれるK.J.チョイと四日間プレーできてよかった。予選二日間は委員会の配慮があったとしても、決勝ラウンドは成績順に組み合わせが決まるから、よほど実力があるか神の意志が働かない限りありえないことだ。三日目が終ったとき、最終日もK.J.チョイと回ることが決まって、タイガーは本当に嬉しそうな顔で握手を求めていたが、表情は孤立するタイガーの心境を表わしているようにもみえた。PGAツアーは何といっても未だ白人中心社会であるから、アジア・アフリカの混血タイガー・ウッズに対する風当たりは相当強いはずである。同じアジア人のK.J.チョイが、タイガーの風除けのようにして堂々とプレーする姿と毅然とした態度は、まるで風神・雷神のようにも見えて頼もしくも思えた。

 

ミケルソンに対する万雷の拍手とスタンディングオベーションはマスターズという舞台にふさわしいものだった。ウッズに対する冷静な拍手はマスターズの歴史と伝統に支えられる品格を感じさせるものだった。K.J.チョイはサンデーバックナインに入って優勝するかもしれない勢いを見せたときには少し注目されかけたが、多くはウッズの脇役として時々画面に映る程度だった。今回のマスターズでK.J.チョイが果たした役割をどれだけの人が評価したか分からないが、彼に絶大な拍手を贈り心から感謝したのはタイガー・ウッズではなかったかという気がしてならない。もし映画祭のように助演賞が与えられるとすればK.J.チョイが最有力候補になるだろうが、一見スキャンダルに汚されそうになった2010年マスターズも、例年に負けない内容のトーナメントとして幕を閉じた。21世紀はアジアの時代といわれているが、今後アジア太平洋ツアーを支えるのは日本のプロではなく、韓国のプロに違いないという印章を強く受けたのは、私一人ではなかったかもしれない。

 

ミケルソン優勝の意味

2010年度マスターズはフィル・ミケルソンが16アンダーで優勝したが、今年のマスターズはむしろゴルフ以外の面で大きな関心が寄せられていた。
今年になってタイガー・ウッズの不倫問題が発覚し、大変なスキャンダルとなって世界中大騒ぎとなり、しまいにゲームソフトまで売り出される始末。たまりかねたウッズはマスターズまで全試合を休まざるを得なかったことは、ゴルフをしない女子供でも知っていた。ゴルフ帝王タイガー・ウッズのスキャンダルは米国大統領クリントンのとき以上に大騒ぎだったかもしれない。

 

一方フィル・ミケルソンは典型的な白人プロテスタントで、真面目なうえ家族を大切にすることで知られている。奥さんがガンと闘っており、昨年からピンクリボンをつけて試合に出ていたが、多くのプロ仲間もピンクリボンをつけて奥さんの回復を祈ってくれていた。アメリカゴルフ界の多くの白人たちは、黒人タイガー・ウッズに王座を奪われて、白人ミケルソンに何とか王座を奪い返して欲しいと思っていたはずだ。ウッズとミケルソンは米国でも人気を二分するライバル同士のうえ黒人と白人、不品行と品行方正、仏教徒とキリスト教徒という具合に余りにも対照的だから本人同士以上に周囲の関心が高まったのは無理のないことといえる。

 

アメリカの白人社会、特にプロテスタント社会にとって、ゴルフは聖地セントアンドリュウスから伝わる神聖なるゲームであるがゆえに、異教徒や異民族に汚されることは不愉快千万なことなのだ。モンゴル人朝青龍に日本の伝統思想や横綱の名誉が汚されたとして大騒ぎした日本と同じ問題と考えられる。米国によらず世界がグローバル化して、異教徒や異民族が同じ社会で生きてかなければならなくなると、こうした問題が次々起こり対応を誤れば紛争や戦争に発展しかねない。

 

マスターズが始るまでは試合の途中何かハプニングが起きやしないか心配する人も多かったが、知る限り何事もなかったようだし、マスターズではパトロンと呼ばれる観客も素晴らしいマナーで試合を盛り上げていた。ミケルソンはもちろんウッズにも惜しげない拍手を贈り、ウッズ自身「私を温かく迎えてくれたパトロンの皆さんに感謝します。」と語っていた。ミケルソンが優勝して安堵した人も多いだろうが、本当は一番安堵したのは優勝できなくても無事復帰できたタイガー・ウッズ自身だったに違いない。

 

騎士道と武士道

「21世紀になって騎士道と武士道とは大層な」と言うなかれ。タイガー・ウッズと朝青龍の問題は現代社会を象徴するほど深い意味がある。ゴルフも相撲も商業主義に乗って人気絶頂だから、優勝者は金と名誉と名声を同時に手にする。勝者はスターとしてもてはやされるので、つい何をしても許されると思うかもしれないが実はそうではない。勝者がいれば必ず敗者がいるし優勝者の陰に無数の敗北者がいる。まさに「一将功なり万骨枯る」という世界なのだ。敗者の報酬は無残な敗北感だけで、決してスポットを浴びマスコミに書き立てられることもない。アメリカPGAツアーでは優勝賞金1億円余を狙って世界中から選ばれたトッププレーヤー140名余が出場するが、半分は予選落ちとして二日間で帰る。どんなにひもじくても水で腹を満たして次のチャンスを狙うしかない厳しい世界を生きている。相撲の世界も給料が保障されているものの、優勝者がほとんど良い所を独り占めしてしまう優勝劣敗の厳しい世界だ。

 

騎士道はキリスト教、武士道は神道仏教の影響を受けて900年ほど前から闘士の倫理道徳として礼節や惻隠を大切にして現在に受け継がれている。ゴルフは騎士道、相撲は武士道という伝統を守ってきたので、俄かに強者や勝者に王者面をされると伝統がボロボロになってしまう世界なのだ。ゴルフも相撲も伝統思想を守るか商業主義に徹するか苦渋の選択を迫られている点で共通している。伝統思想を守ろうとすると財政問題に直面し、商業主義に徹すると品格問題に直面する。この問題は王侯貴族でも庶民の世界でも何百年も続いたことだから慌てることはないが、デモクラシーの世界では庶民の良心が選択することになっているのだから、いずれみんなで答えを出せば良いではないか。

 

ゴルフも相撲も強い国際選手が次々と現れて国際色が益々強くなってきたが、グローバル世界の中で伝統はどうやって生き残ればよいのか。伝統は守るものでもあり破られるものでもあるから、やはり時代や商業主義と闘って一緒に生き残る道しかなさそうだ。先週フロリダのPGAナショナルコースで開催されたホンダクラシックはコロンビアのカミーロ・ビジェーガスが13アンダーで優勝したが、米国本拠地で開かれた試合の上位成績10名は英国人3人、韓国人2人、アメリカ、コロンビア、南アフリカ、スウェーデン、フィジー各1人だった。ゴルフも完全に国際競技になったことがわかるが、それにしてもアメリカ本拠地で開催され、日本企業がスポンサーになっているトーナメントに、日本からは誰も出場していないのはホンダさんじゃなくても寂しい話だ。武士道精神と品格を備えた若ザムライが日の丸を背負って世界に名乗りを上げるのはいつの日か待ち遠しい。

 

品格って何?

2010年は予想もしない幕明けとなった。ゴルフ界の帝王タイガー・ウッズが私生活上の不品行が原因で引退同様の状態になっているし、相撲界の帝王朝青龍も好ましくない言動が原因でとうとう引退させられた。二人とも稀な才能と実力を持つ現役ナンバーワンのトップアスリートにもかかわらず、何故このようなことになってしまったのだろう。二人に共通して言われていることは「品格に欠ける」ということらしいが、「品格ってナンだ」となると誰も歯切れが悪い。最近「○○の品格」という題名の本がいろいろ書店に出回っているが、品格がナンだと言われたら確かにどの本も歯切れが悪くなる。

 

ゴルフも相撲も歴史と伝統を持っていることで知られているがゴルフは騎士道、相撲は武士道という伝統精神のうえに成り立っている。騎士と武士はどう違うのかとなると「見れば分かるじゃない」となるし、ドッチが強いのかとなると「闘ってみれば分かるじゃない」となって話はシラケルが、騎士道と武士道の共通点は何かとなると話はススム。一言でいうと闘うことを宿命付けられた者の品格を追及していることだ。騎士も武士も個人的には何の恨みも憎しみも無いもの同士が、戦場では互いに殺しあわなければならない使命と宿命を負っている。そこに倫理道徳がなくなれば野獣以下の存在になることを恐れて、ギリギリの人間的尊厳として日常の礼儀正しさ、弱者敗者に対する優しさ、勝って驕らない謙虚さが求められるようになったのではないか。この人間的尊厳を「品格」といっているようで、欧米社会でも地位や身分にふさわしい品格を「ノーブレスオブリージュ」などといって大切にしているようだ。

 

タイガー・ウッズはコースではチャンピオンだが家に帰れば一人の夫。朝青龍も土俵では横綱だが外に出れば一人の若者。この当然の論理を常識とするデモクラシー社会を実現するのに、先人たちは苦労し血を流してきた。誰もが神の下では平等という大原則を忘れるとデモクラシーは成立しない。市場原理に従った品格なき弱肉強食の競争社会で世界中の人たちが今も苦しんでいる。だから今「国家の品格」「企業の品格」「国民の品格」「政治家の品格」「投資家の品格」と騒がしく人間的尊厳を取り戻そうとしているようだが、難しく言わなくても人間の良心を取り戻そうとしていると言った方が分かり易いかもしれない。
嬉しいことに日本の若ザムライたちは実に幅広い範囲で日本人らしく活躍しているようで、海外の人たちからも好感を持たれているようだ。スポーツマン、技術者、職人、事業家、PKO活動家から自衛隊まで評判が良いのに、なぜか政治家とゴルファーの評判がよろしくない。やはり品格の問題なのだろうか。