ゴルフ再生への道 2-02 教育不毛地に栄えたゴルフ産業

1960年代以降、経済成長の余裕から生まれたスポーツレジャー産業にスキー・ボーリング・ゴルフがある。戦後盛んになった映画・パチンコ・マージャンと一味違うカッコよさを持ったスポーツレジャーは、たちまち国民的人気を博して成長産業にのし上がった。その時代に学生時代を過ごした私も、ご多分に漏れず勉強を後回しにして全てのレジャーを楽しんだ。国民的人気を博したこれらのレジャー産業が、今ことごとく斜陽化し衰退していくには何か理由があるに違いない。

 

私が本格的にゴルフにかかわりを持ち始めたのは1970年代だが、既に日本ではゴルフブームが始まっていた。都心には芝ゴルフ、日本テレビ、TBS、環七ゴルフなどの大型練習場があり、都内近郊にも続々と中型練習場が建設されていたが建設目的に共通点があった。当時は不動産価格がうなぎ登りに上がり始め、大企業も個人地主も本業より不動産の値上り益に魅力を感じていたために不動産投機を兼ねた現金商売としてゴルフ練習場が注目されていた。空き地に練習場を建てればキャピタルゲインだけで含み資産が加速度的に膨らむうえ、固定資産税と金利を払って更に相当の現金が残る。お金が必要になれば鉄塔を撤去して簡単に換金できる実に合理的な投資事業だったのである。

 

練習場オーナーや経営者は全員口を揃えて「土地があったから始めた」といい「素人でもできるから始めた」といっていた。言葉どおりゴルフに対する理想も理念を持たず余計なことをしないのが最も合理的で収益性の高い経営方法だったのである。休日は玄関を開ければ1時間で満席になり、平日は夕方6時過ぎから順番待ちの客が列を成した。完全な売り手市場だからサービスだの経営戦略だの面倒なことは考えず、ひたすら打席回転率とボール回収効率を追求することが経営者の務めだった。自動ティーアップ機は打席回転率を上げる手段だし、コンベアーやエアー送球機,ボール洗浄機やボール販売機はボール回収効率を上げる手段で、全て経営者に対するサービスである。

 

練習場を経営したり就職するために学校に通った人は一人もいない。何故ならば勉強する必要もなければ、勉強する学校もなかったからである。未経験者でも先見の明と土地があれば、営業努力などしなくとも見よう見まねで開店当日からザクザク現金収入が得られる「絶妙商売」だった。ボール代は1球10円前後だから正月の神社よろしく何十個・何百個の10円球を熱心に投げに来てくれるゴルフ信者に支えられた絶妙商売である。閉店後にボールを拾いながら10円玉のお賽銭を回収するような有り難い気分を味わったものだ。ゴールドラッシュならぬゴルフラッシュの中で始まった日本のゴルフ産業は教育不毛というより教育不要産業として繁栄したのだった。

 

ゴルフ再生への道 2-01 教育格差と経済格差

明治維新によって240年間続いた士農工商の身分格差がなくなり四民平等社会が実現したばかりの明治5年に『学問のすすめ』を著した福沢諭吉は、この本がたちまち70万冊も刊行されたことに自身驚きの声を発している。当時の人口は3,500万人だから実に160人に一人が読んだことになり、現在の人口に換算すると約3.5倍の250万部の大ベストセラーを生んだことになる。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」で始まる『学問のすすめ』は第1章でいきなり「人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事を良く知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」と教育格差こそ身分格差や経済格差の元凶だと言い放った。

 

最近、尾木ママがテレビで「今の日本の教育で重大な問題点は、進学にお金が掛かり過ぎるために経済格差が教育格差を生み、教育格差が更なる経済格差を生む負のスパイラルに歯止めが掛からないことだ」と深刻に語っていた。まさに140年前に福沢諭吉が指摘したことと表裏の現象が、今の日本社会に進行しつつあるというのだが、更に悪いことは教育そのものよりも受験テクニックを学ぶ受験勉強に莫大なお金が掛かることだという。実社会で何の役にも立たない受験テクニックだけに秀でた高学歴者で構成される格差社会は社会のリーダーもエリートも生まないばかりか、一端この格差社会に入りそこなったら二度と這い上がれない泥沼社会に転落することでもあるいう。

 

いま世界はグローバルに教育格差と経済格差をなくす方向に進んでいる。インターネットによる情報通信革命が安価なオンデマンド学習を可能にし、マサチュセッツ工科大学から始まったオープンコースウェアと称する全講義をネット上に無料公開するシステムが世界中に広がり教育環境を根底から覆している。世界の如何なる僻地からも、格差社会のどん底からも本人の意思と覚悟があれば世界最高の教育が受けられる時代が始まった。福沢諭吉が説いた『学問のすすめ』はいま世界規模で展開されているのだ。日本という極東島国の常識に捉われて世界の動向を見ないものは、自らを世界格差のどん底に追いやることになる。

 

ピーター・ドラッカーは「IT革命の成果は何よりも教育システムの変革に強く現れる」と断言して世を去った。なるほど「インターネットは学習の高速道路」といわれるほど学習方法を革命的に変えている。安価なパソコンやタブレットを使ってアクセスすれば、地位・身分・格差を問われることなく誰でも僅か1秒足らずで情報の山や知識の宝庫に入ることができる。いまや誰かが教えてくれるのを待っている時代ではない。自分から無料高速道路を飛ばして世界に学びにいく時代なのだ。

 

ゴルフ再生への道 1-14 シルバータウンとゴルフクラブ

最終人生をどんな所で暮らすかは高齢化社会の最重要課題である。現状を見ると余り夢や希望が見出せない。高齢者3000万人のうち20%は孤独な一人暮らし、40%は老夫婦暮らし、残り40%は老人ホームか同居生活か、病院暮しか介護施設暮しか、自主性のない生活を強いられている。老後を楽しくはつらつと生きることができる社会の実現は福祉国家の理想に違いない。国の福祉政策は現実問題の対策に追われて夢も希望も理想も失っているから、終着駅が見えてきた暇老人が暇つぶしに理想を求めて夢と希望を追いかけたらどうだろうか。老後の生活環境は如何にあるべきか、年寄自身が身に染みて分かっているのだから、国政や若者任せにしないで自ら考え理想環境を創造すべきだ。

 

3000万人といえばサウジアラビヤ、マレーシア、ペルーの人口に匹敵する数だから結束すれば一国をなす力がある。高齢とはいえ相当の経済力を持っているし戦略を間違わなければ、まだまだ成長の可能性もある。高齢者は肉体労働力が低下しても知的労働力は高いので相当の付加価値生産を上げることもできるだろう。知的財産権が確立してくれば更に相当の無形資産を所有することにもなる。高齢化や長寿化は社会問題ではなく社会変化であると認識すれば、そこに新たな可能性や発展性が見えてくるはずだ。高齢者が既存社会からリタイアしてその社会のお荷物になるか、新たな社会を創設して自立するかは天と地の差があるのだから大いにやってみる価値はある。

 

家庭紛争や世代対立はいつの時代どんな社会でも必ず起きる。夫婦・親子・嫁姑の関係から民族対立に至るまで価値観や習慣の違うものが共同生活を営むことは本質的に難しいらしい。ところが部落や集落、原始社会や少数民族など強い絆で結ばれた平和な共同体を見ると、群生動物と同じように強く賢いリーダーに統率された集団行動によって平和と秩序が保たれている。その社会には暗黙の掟とも思える秩序維持のルールがあって、ルールに反するものはリーダーや仲間から厳しく制裁されている。フランスの社会学者エミール・デュケールが言う「個人が権利を主張すると組織は崩壊し、結果として個人は孤立する」というアノミー現象を起こさないことが組織維持の原則のように思える。

 

400家族1000人くらいで構成される欧米のゴルフ倶楽部は集団の秩序が維持された文化コミュニティでもある。クラブキャプテンまたはクラブプロフェッショナルといわれるリーダー統率の下、クラブの集団秩序を維持している暗黙の掟は「ゴルフの基本精神」である。ゴルフの基本精神は自己審判・自己責任の原則に基づく礼節・謙虚・誠実・寛容など極めて高度な精神文化に支えられているため、集団の秩序が長く保たれてきた。ゴルフ場を中心に形成されるシルバータウンは「ゴルフの基本精神」を暗黙の掟とする限り、末永く平和と秩序を維持し高齢者の理想社会を築くに違いない。

 

「ゴルフ再生への道」 シリーズ1 ゴルフ王国の栄枯盛衰  完

 

 

ゴルフ再生への道 1-13 クラブのコミュニティリーダー

欧米豪州のプライベートクラブがキリスト教徒の地域コミュニティであることは私たち日本人には分かりにくい。プライベートクラブは驚くほど閉鎖的で、同じキリスト教徒でも宗派が違えば会員になることもプレーをすることもできない。「ゴルフ倶楽部なのに何をカタクナに」と思うが、ゴルフ倶楽部ではなく宗教コミュニティなのだと分かれば納得できる。日本の場合ならば神社仏閣を中心に信徒や檀家が地域コミュニティを形成し、神官や住職がコミュニティリーダーを務めていることを考えればクラブとは何か、コミュニティリーダーの役割は何かを理解し易い。コミュニティでは共通思想や共通価値観がないと組織の秩序を維持することが難しく、宗派の異なる信徒や檀家が同じステージで活動すれば必ず争いのもとになる。

 

欧米豪州のプライベートクラブはゴルフ倶楽部を宗教コミュニティにしており、共通思想はプロテスタント思想であり共通価値観はゴルフの基本精神である。数百人単位の集団が勝手に自己権利を主張し始めたら忽ち派閥争いや権力抗争が起きるに違いないが、共通価値観としてゴルフの基本精神ジェントルマンシップが守られれば組織の秩序は維持されるはずだ。無宗教や無神論が多い日本社会に共通思想を求めることは難しいが、ゴルフの基本精神ならば組織の秩序を守る拠り所となるのではないか。シルバータウンの共通価値観としてゴルフの基本精神が守られるならば、思想信条の違いや趣味嗜好の違いを乗り越えて秩序が保てると思うのは、ゴルフの基本精神が自己審判・自己責任に基づく礼節・謙虚・誠実・寛容なるジェントルマンシップに支えられるからである。

 

普通コミュニティーのリーダーは自薦他薦を含めた選挙制度によって民主的に選出されるが、この民主主義の原則が実は抗争や対立の原因になっていることが多い。民主制度は雑多な思想や価値観を公平に受け入れたうえで是非を多数決で決めるシステムだから、常に少数の不満分子を抱える組織でもある。多数意見と少数意見のバランスで秩序を保つ組織は砂上の楼閣に等しく、リーダーは常にメンバーの顔色を覗っていなければ地位は保てない。残念ながら絶対価値基準のない民主社会には本当の秩序が育たないことを現実が証明している。これに対してクラブは一定の資格要件を備えたプロフェッショナルがゴルフの基本精神を絶対価値基準に、コミュニティメンバーの公僕として仕える制度だからメンバーはリーダーの意見や判断に従わざるを得ない。逆らうもの反発するものは組織の反逆者として組織そのものから排斥される。この組織の秩序を維持する人材こそクラブリーダーでありプロフェッショナルだから、日本のゴルフ再生への道は、今後どれだけ多くの人材が育つかにかかっているはずだ。

 

ゴルフ再生への道 1-12 産業再生と高齢社会

日本もかつては70%以上の人が第一次産業といわれる農林水産業に依存していたが近年は僅か5%に過ぎない。そしてこの5%の人を保護するために莫大な国家予算が使われているが、多くは延命治療に近い捨て金になっている。1キロ50円で輸入できるコメを350円で国内生産するために、マグロや鯨をわざわざ地球の裏側に捕りに行くために日本は国際舞台で袋叩きに遭っている。「金と頭は使いよう」というが、その一次産業保護の捨て金と森林組合やアメリカの知恵を美しい自然環境や豊かな地域環境づくりに使えないものか。日本は国土が狭いと言いながら森林や田んぼが余っているのだから生産性や経済性、社会性や公共性の高い目的に再利用したら良いと思うのだが。

 

シルバータウン構想は20年以上前から提案していたがバブルの時代は「年寄り臭い」と言われ、崩壊後は「それどころではない」と言われた。グローバル時代を迎えて日本の産業構造が大きく変化し、少子長寿社会となって人口構成も変化した。歴史的変化の中で農林水産業もゴルフ場も存続が危ぶまれているが、うまくすれば両者とも再生する可能性がある。再生どころか21世紀型の先端新事業や先進高度社会が誕生するかもしれない。今や世の中から厄介者扱いされている年寄りと破綻ゴルフ場が協力してユートピアを建設するとなれば、若者だって血湧き肉踊る話ではないか。これぞ究極のリサイクルビジネスだ。

 

長年社会人として大人社会を生きてきた者が、ある日突然「自由に生きて良い」といわれても朝起きて行く所がない、やることがないの「サンデー毎日」が続けば「何のために生きているのか」という疑問を抱くのは大人ゆえの悩みだ。ところが人間は歳と共に成長すると思ったら大間違い。本当は歳と共にガキっぽくなるようで優しく言えば「子供に返る」らしい。ならばいっそのこと老後は子供のように毎日屈託なく過ごしたいものだが、ゴルフ場で戯れる年寄りを見ていると「ゴルフは大人を子供にする」のは間違いない事実だと確信できる。ゴルフの特性は生涯楽しめることと誰とでも楽しめることだが、それを可能にしているのがゴルフの歴史と伝統である。

 

ゴルフの歴史は誰もが楽しめる大衆スポーツとして世界に普及し、伝統は全てのゴルファーに品格と正義を涵養してきた。歳とともに喜びや楽しみが無くなる年寄りがゴルフを通して魂を甦えらせ、歳とともに相手にしてくれない若者や孫とゴルフを通して品格と正義を学ぶ。欧米の老ゴルファーたちはゴルフによって自分達自身と子供や孫世代に生きる力を与えてきたのである。シルバータウンは高齢者が第三の人生を有意義に過ごすだけでなく、人生で培った実践技術や実践知識を体験学習を通して次世代へ伝承していくカルチャーセンターでもあるのだ。シルバータウンから次世代の松山英樹、石川遼、宮里藍が続々と誕生し世界に飛び立って行くことは目に見えている。

 

ゴルフ再生への道 1-11 自然保護と環境開発

ゴルフ場建設盛んな頃、地方の農協や森林組合から度々ゴルフ場建設誘致の相談を受けた。減反政策や農地法によって自由な土地利用を制限された農協は段々と荒廃し過疎化していく農村の対策に頭を痛めていたし、需要減少と安価な輸入木材に圧迫されて森林を維持することすらできなくなった森林組合は自然保護や環境保全に頭を痛めていた。無責任なマスコミ報道に焚き付けられた世論や有識者は「のどかな田園やゆたかな森林は日本の宝だ!」と声高に叫ぶが田園や森林を維持するには多くの人手と資金を必要とすることを全然理解していない。ゴルフ場誘致は人手と資金を得る一石二鳥の策というのだ。

 

ところが自然保護団体や市民活動家は「ゴルフ場開発こそ自然破壊の元凶!」と声高に叫びプラカードや立看板を林立させて建設に反対する。確かに成田空港に着陸するとき見る房総半島は悪ガキが悪戯した掻き傷のようにゴルフ場が乱立し誰が見ても自然破壊に見える。ところが実際は「自然放置こそ自然破壊の元凶!」なのだ。アメリカ上空からパームスプリングスやラスベガスに着陸するとき、サソリとガラガラ蛇しか生きられない荒涼たる地に忽然と緑豊かな巨大オアシスが出現する。無数のゴルフ場周辺に美しい街が整然と造られ、人の手によって豊かな生活環境が開発されているのに驚く。自然を放置すれば人を寄せ付けぬ荒涼地となり、人が利用すれば豊かな自然を取り戻すことが一目瞭然に理解できる。

 

2015年問題に倒産ゴルフ場を放置したらどうなるかという問題がある。森林や田畑を開発してゴルフ場を建設したが、もう元の森林や田畑には戻らないし放置すれば間違いなく廃墟となり公害問題に発展する。新たにゴルフ場を建設するには10年の歳月と30億の資金が必要なことを考えれば倒産ゴルフ場を放置する手はない。ゴルフ場周辺を再開発してシルバータウンを建設する手がある。元々カントリークラブは田舎に造られた別天地を意味するわけだから、ゴルフ場を中心にコミュニティクラブ、福祉施設、住宅、酪農場、果樹園、民芸工場などを造って第三の人生を豊かに過ごすゴルフユートピアを建設する策だ。

 

米国では1ゴルフ場(18ホール)当たり400世帯が標準となっているが、高齢者400世帯は人口にして600人位だろうか。地方分権や地方活性化が叫ばれているいま、都市高齢者が豊富な個人資産や年金収入、高度な知見や技術を携えて地方に集団移住することは革命に値する出来事になるだろう。全国2400コースの三分の一、800コースがシルバータウンに変わるならば480,000人が地方分散することになる。シルバータウンは電気・水道・食料・医療の自給体制を備えるだけではなく余剰生産を積極的に都市や外国へ輸出する独立経済自治区でもある。IT武装したシルバータウンは知的財産収入や配当収益も稼ぐだろう。

 

ゴルフ再生への道 1-10 アメリカに残る前車の轍

アメリカに残されている前車の轍を60年前に遡って辿ってみると、日本の進むべき道がはっきりと見えてくるのではないか。60年前のアメリカは朝鮮戦争も終わり、ようやく平和が甦り荒廃しきったゴルフ場の整備に取り組んでいるが、ゴルフ場をタイプ別に仕分けしてコンセプトに沿ったマネジメントスタイルを確立している。タイプは完全メンバー制のプライベートクラブ、地域コミュニティや公営コース、完全パブリック制のデイリーフィーコースなどで、プライベートと高級リゾート以外は徹底合理化を図りワンラウンド20ドル前後の低料金を実現している。それゆえ地域の環境保全施設として、或いは教育文化施設やコミュニティ施設として広く定着してきた。

 

アメリカは3億1000万人に15600コースあるが、日本は1億2600万人に2400コースしかない。イギリスは6200万人に2700コース、カナダは3400万人に2300コース、オーストラリアは2200万人に1500コース、スポーツが多様化した欧州先進10カ国にも3200コースある。日本のゴルフ場が多いか少ないかは考え方によるが、高級接待施設と考えるなら多すぎるし、教育文化施設と考えるなら少なすぎる。日本のゴルフ再生に向けて大切なことは、ゴルフの社会的意義や価値についてもう一度根本から考え直してみることではないか。

 

振り返ってみると日本のゴルフ場は不純な動機によって造られたものも少なくない。金融商品や煉金場として建設されたゴルフ場はことごとく破綻したが、破綻ゴルフ場も地域文化資産であることに変わりはない。莫大な時間と費用を掛けて造成した地域の自然文化資産を如何に社会や人々の利益に還元するかという視点でみれば破綻ゴルフ場も貴重な財産だ。ゴルフ場は地域の社会環境にとって如何に有益か、ゴルフは人々の生活人生にとって如何に有意義かを検証してみると、アメリカに残る轍(ゴルフの変遷)は実に貴重な資料といえる。

 

日本はいろいろな面で歴史的転換期を迎えている。世界一の長寿国になったことや人類史上初の少子高齢化社会を迎えたことなど、前例もなければ前車の轍もない問題に直面しているが、土地が足りないといわれながら都市近郊の広大な生産緑地や調整区域は利用されていないし、労働人口の減少を心配しながら高齢者の豊富な知識労働力を無駄にしているし、財政難や資金難に悩まされながら世界一豊富な個人資産が有効活用されていないなど、パラダイムの転換を図れば無限の発展性を秘めていることに気が付く。ゴルフの普及率は先進国の文化バロメーターといっても過言ではないが、日本のゴルフが衰退していることは先進国としての地位や文化レベルが下がっていることを意味するならば、これは単なる業界問題として片付ける訳にはいかない。

 

ゴルフ再生への道 1-09 産業再生か文化再生か

2003年、経済産業省が『ゴルフ産業崩壊のシナリオ』なるレポートを発表し、このレポートに基づいて業界では『2015年問題』が取り沙汰されている。つまり少子高齢化が進む中、ゴルフ産業の中核を担っていた団塊世代が急速にゴルフからリタイアするため日本のゴルフ産業は一気に崩壊に向かうというのだ。対策としてゴルファーを増やしプレー回数を増やす必要があるというのだが、肝心なのはどうすればゴルファーが増えプレー回数が増えるかという具体策である。日本のゴルフ産業は崩壊すべくして崩壊したというのが真相で、振り返ってみれば日本のゴルフはバブル産業そのものだったから、バブル崩壊と運命を共にせざるを得なかった。一端崩壊したものはSTAP細胞でも使わなければそう簡単には甦らない。

 

実は米国ゴルフ産業もアメリカ黄金時代にバブル産業として急成長し、1929年のウォール街大暴落によって崩壊している。その後の世界恐慌・世界大戦によって壊滅的に崩壊し、戦後15年経ってようやく再生し始めている。何のことはない米国で起きたことが60年遅れて日本にも起きただけで「世界で歴史は繰り返す」ということか。それならば60年前に米国ゴルフ界は何をして再生したのか検証してみれば自ずと道は見えてくるではないか。日本は世界大戦に大敗し30年で復興した経験があるのだから、悲観的に考えたり難しく考える必要はないはずだ。2015年問題とは『2015年から始まる再生問題』と読み替え、賢者の如く歴史に学ぶならば日本のゴルフは姿を変えて必ず甦るはずだ。

 

NGFの資料によれば「1920年代には好景気に浮かれた成金たちがアラビヤ宮殿のようなクラブハウスで日夜ドンチャン騒ぎをしていたが、30年代に入るや世界恐慌によって毎年150件ものゴルフ場が倒産していった」と辛辣に語っている。このままでは英国で発祥したゴルフの伝統が米国に渡って崩壊してしまう事を心配して1936年にNGFが設立された。残念ながら人間は時代や社会が変わっても「前車の轍」を踏みながらでなければ進歩成長しないものらしい。だったら何も恐れずに勇敢に前者の轍を踏み、前車に追いつき追い越して今度は後車のためにより良い轍を残せばよいではないか。

 

米国ゴルフ産業は再生に当たって、二度と不動産バブル崩壊の轍を踏むことはなかった。再生の方向は不動産や金融の産業再生ではなく、教育や文化の再生だったために世界一のゴルフ大国に発展したと考えられる。不動産価値を追い求めて崩壊したゴルフ場をスクラップして、教育価値や文化価値に事業転化してゴルフを環境開発や生活文化に応用していったのである。ゴルフのある生活環境やゴルフ場のある地域社会、ゴルフを応用した教育制度やゴルフを導入した福祉制度などゴルフ文化の活用によって見事に再生した。

 

ゴルフ再生への道 1-08 ハゲタカファンドの目

ハゲタカは日本上空を舞いながらゴルフ場をどのように見ていたのだろうか。普通ハゲタカは地上に死臭が漂わなければ輪を描きながら空を舞うことはないはずだ。もう身動きできなくなって死を待つばかりの状態になった獲物を狙って上空を舞っているのだから、日本のゴルフ場は瀕死の状態にあったことは間違いない。日本の和議法や破産法、会社更生法では生かすことも殺すこともできない状態で、周りにはライオンやハイエナ、狼がうろついていた。うっかりハゲタカが舞い降りようものならば逆襲されて大怪我する。ハゲタカが安心して舞い降りるには地上の猛獣が近寄れない状態でなければならない。

 

ここで登場するのが保安官ワイアットアープが使った長銃身コルト『民事再生法』だが、原型は新連邦倒産法第11章、通称『チャプターイレブン』である。裁判所からバッジを与かった保安官=管財人は『民事再生法』を構えてゴルフ場に立ちはだかり全員にホールドアップを命じた。落城寸前、瀕死のゴルフ場は無法地帯に等しい状態だったから、何としても法の下に秩序を回復しなければならなかった。ハゲタカは管財人によって静まったゴルフ場に舞い降りたが、驚いたことに「私たちは不良債権を漁りに来たのではない。再生を助けるために資金を運んできたのだ」とコウノトリのようなことを言うではないか。

 

実際にハゲタカといわれたヘッジファンドはいずれも数千億円の資金を用意していたが、彼らは一杯の水が砂漠では途方もない高値で売れる原理を知っていたのだ。彼らはまず銀行が抱える不良債権をバルクとして二束三文で買取り、それをオフィスビル、マンション、商業施設、ゴルフ場、証券などポートフォリオに仕分けする「事故車の解体屋」のようなことを始めた。金融工学を学んでいない私はハゲタカの目も耳も頭も持ち合わせなかったから、彼らの目的も戦略も解らなかったが、無知無学とは実に恐ろしいことだと痛感した。彼らは言葉どおりゴルフ場を再生するために来たのではなく、再生を助けるために来たのだったが、私にはその根拠が解らなかった。

 

彼らがいう「出口戦略」とは瀕死の状態に陥っている事業に「緊急資金」を提供し、債権や株を担保に再生資金を貸し付けて引き上げることを意味する。自助努力を怠って再生しなければサッサと第三者に債権や株を売り飛ばして逃げることもある。20年前のゴルフ場売買は不動産取引そのもので名義変更や登記変更だけでも大変な手間隙費用がかかったが、今はM&Aと称する会社売買だから簡単に売り買いできる。ゴルフ業界でも「所有と経営の分離」が始まったから、今後は頻繁にオーナーチェンジや経営交代が起きることになるだろう。確かにハゲタカファンドにボロ儲けされたが、犠牲が大きかっただけに高い授業料を払って再生の道筋をつけて貰ったと考えなければ納得いかない。

 

ゴルフ再生への道 1-07 ゴルフ場オーナーは誰か

預託金返還問題は最初からボタンの掛け違いがあったのではないか。ゴルフ場建設を請け負った開発会社が10年経過してもゴルフ場を造らなかったら返還請求するのが当然だが、ゴルフ場が完成ないし完成間近ならば返還請求すべきではなかった。預かったお金でゴルフ場を造ったのだから、返すお金が無くて当たり前である。途中で抜けたければ第三者に証券を売却して資金回収すべきで儲かったら証券を売り、損したら金返せというムシの良い話は本来ありえない。有り得ない事が有り得てしまったところにゴルフ産業崩壊の元凶が潜んでおり、自分たちのゴルフ倶楽部を造ってゴルフライフを楽しもうとしたのか、ゴルフ場を造ってみんなで儲けようとしたのか、いずれも後の祭りとなった。裁判所は開発会社に対して「預託金を返還せよ」と命じたが、本来なら「ゴルフ場を引き渡せ」と命ずるべきではなかったかという気がしてならない。

 

会員制ゴルフ場のオーナーは誰かを考えたら常識的に会員ではないかと思う。

会員組合としての理事会がコースとクラブハウスを所有しクラブ活動を行うが、施設を所有しなければ施設オーナーから借りて活動する。前者の例が米国のナショナルオーガスタで会員はクラブハウスもコースも所有しプロに管理を委託している。後者の例がセントアンドリュウスでコースは市が所有し業者に管理を委託しているが、ロイヤルエンシェントクラブほか多くのクラブが市から施設を借りてクラブ活動をしている。欧米豪州ではゴルフ場の所有権と経営権、クラブ運営権が分離して目的を果たしているが、日本では70年代以降に多くのゴルフ場が預託会員権制度を利用し、開発者自身が三権を掌握して独裁体制を築き上げてしまった。そのため会員は建設資金を提供したうえ常連客にされただけで、権利らしきものは何も与えられなかった。

 

預託金返還問題は段々と泥沼の様相を呈し、97年には最大手の日東興行が返還に応じきれずに倒産した。では倒産ゴルフ場は誰のものか。本来ならゴルフ場やクラブハウスを会員に引き渡して預託金返還問題に終止符を打ちたいところだが、会員も破産管財人も大いに悩んだはずだ。ゴルフ場やクラブハウスには預託金を返還するために多額の借入担保が付いていたのである。ゴルフ場を引き取れば会員は預託金が返らないうえに多額の負債を抱えることになるから、破産管財人は現行の和議法も破産法も会社更生法も使えずに仮処分のまま暫定営業を続けざるを得なかった。やがて現場では債権者・会員・業者・従業員との間で売上金の奪い合いという醜い争いまで起こり、エケットマナーだのジェントルマンシップだのというゴルフの文化はついに地に堕ちた。ここに至ってようやく米国直輸入の非常破産法『民事再生法』が登場するが、法案通過を見越して日本上空にはアメリカハゲタカファンドが舞っていた。