ゴルフ再生への道 1-13 クラブのコミュニティリーダー

欧米豪州のプライベートクラブがキリスト教徒の地域コミュニティであることは私たち日本人には分かりにくい。プライベートクラブは驚くほど閉鎖的で、同じキリスト教徒でも宗派が違えば会員になることもプレーをすることもできない。「ゴルフ倶楽部なのに何をカタクナに」と思うが、ゴルフ倶楽部ではなく宗教コミュニティなのだと分かれば納得できる。日本の場合ならば神社仏閣を中心に信徒や檀家が地域コミュニティを形成し、神官や住職がコミュニティリーダーを務めていることを考えればクラブとは何か、コミュニティリーダーの役割は何かを理解し易い。コミュニティでは共通思想や共通価値観がないと組織の秩序を維持することが難しく、宗派の異なる信徒や檀家が同じステージで活動すれば必ず争いのもとになる。

 

欧米豪州のプライベートクラブはゴルフ倶楽部を宗教コミュニティにしており、共通思想はプロテスタント思想であり共通価値観はゴルフの基本精神である。数百人単位の集団が勝手に自己権利を主張し始めたら忽ち派閥争いや権力抗争が起きるに違いないが、共通価値観としてゴルフの基本精神ジェントルマンシップが守られれば組織の秩序は維持されるはずだ。無宗教や無神論が多い日本社会に共通思想を求めることは難しいが、ゴルフの基本精神ならば組織の秩序を守る拠り所となるのではないか。シルバータウンの共通価値観としてゴルフの基本精神が守られるならば、思想信条の違いや趣味嗜好の違いを乗り越えて秩序が保てると思うのは、ゴルフの基本精神が自己審判・自己責任に基づく礼節・謙虚・誠実・寛容なるジェントルマンシップに支えられるからである。

 

普通コミュニティーのリーダーは自薦他薦を含めた選挙制度によって民主的に選出されるが、この民主主義の原則が実は抗争や対立の原因になっていることが多い。民主制度は雑多な思想や価値観を公平に受け入れたうえで是非を多数決で決めるシステムだから、常に少数の不満分子を抱える組織でもある。多数意見と少数意見のバランスで秩序を保つ組織は砂上の楼閣に等しく、リーダーは常にメンバーの顔色を覗っていなければ地位は保てない。残念ながら絶対価値基準のない民主社会には本当の秩序が育たないことを現実が証明している。これに対してクラブは一定の資格要件を備えたプロフェッショナルがゴルフの基本精神を絶対価値基準に、コミュニティメンバーの公僕として仕える制度だからメンバーはリーダーの意見や判断に従わざるを得ない。逆らうもの反発するものは組織の反逆者として組織そのものから排斥される。この組織の秩序を維持する人材こそクラブリーダーでありプロフェッショナルだから、日本のゴルフ再生への道は、今後どれだけ多くの人材が育つかにかかっているはずだ。

 

オリンピックゴルフ

オリンピックゴルフってどんなゴルフだろう?って考えてみると実のところ良く分からない。当然、個人戦と団体戦が行われるはずだが国別対抗戦で金だ銀だ胴だ、メダル獲得数は何個だと大騒ぎをするかと思うと少々がっかりする。ゴルフこそ結果よりもプロセスが大切で、そのプロセスには人生そのものを感じさせるドラマが展開されるからである。最近トーナメント中継も上位選手のショットやパットだけをスポットで放映しているが、途中のプロセスはめったに放映しない。ゴルフというゲームは途中のプロセスにこそ人生そのものを連想させるドラマが展開されるから、観ている者もそこに人生や宿命を感じて胸を打たれるのだ。なぜこんなことが起きてしまったのか自分でも理解できないアクシデントや失敗に直面して、冷静な状況判断と適切な対応策を講じながらゲームを繋げていく姿にキャリアを感じ拍手を贈るのである。誰も助けることができないストイックなルールによって自己責任の重さを感じ、如何なる状況の中でも周囲への配慮を欠いてはならないエチケットによってジェントルマンシップの大切さを知ることができる。たったひとつのミスや不運が今まで耐えてきた努力の全てを水の泡とし、取り返しのつかない状態に突き落とされる。ところがその絶望的な状況を耐えて乗り切ったものには、まさかと目を疑うチャンスが転げ込んだりする。ゴルフというゲームは決して諦めたり投げたりしてはいけないことを多くの人に教えてくれるスポーツなのである。だからオリンピックがメダルの色や数を競うスポーツ大会ならばゴルフは最もふさわしくない種目だともいえる。

オリンピックもゴルフも商業経済主義に流されていった点においては同じ運命を辿った。オリンピックは今やスポーツの祭典というより商業スポーツ見本市という方が納得いくし、ゴルフも伝統スポーツというより賞金レースとか用品コンテストという方が実態に合っている。スポーツによらず文化によらず過度の商業経済主義に流されると段々と衰退する傾向にあるようだ。2020年東京オリンピックは過度な商業経済主義に流されないよう気をつけないと、オリンピックが終った途端に経済もスポーツもゴルフもいっぺんに衰退してしまう危険があるような気がしてきた。そうならないためには私たちひとり一人が自らスポーツやゴルフを愛好し、生涯の友として親しむことが何より大切なのではないだろうか。未成年が一億円稼いだ話もトッププレーヤーが何億円で契約した話も、正直言って私たちアマチュア愛好家にとっては面白くもおかしくもない話だ。そんなことより「見せたかったよォ、今日の5番ティショット。プロかと思ったよオレ」。「やったよォ、とうとう90切ったよ」。こんな話の方がよほど面白おかしい。家に帰り興奮して家族に話せば「良かったわね。お赤飯でも炊きましょうか」。オリンピックゴルフの原点もこんな所にあるに違いない。

 

新世代ゴルフが始まった

Time and tide wait for no man.-歳月人を待たず-
受験時代18歳の頃に覚えた英語が突如として脳裏に甦ってきた。バブル崩壊から18年、奇しくも18歳の少年が日本のゴルフを変えようとしている。低迷する日本のゴルフ界を変革することも再生することもできない私たちを憐れんで、天は待ちきれずに若者を与えられた。若者は世界に飛び出して、直接肌で世界のゴルフを感じ取っているが、新世代が感じ取った世界のゴルフとはどのようなものか。ゴルフの理想を求めて変革しイノベーションを起こしてきたゴルフユートピアとはどんな世界か。

 

「ユートピア」は16世紀初頭イギリス人トーマスモアによって書かれたおとぎの国の名だが、モアは権力や権威、身分や財産に支配されない清貧にして幸福な理想国家の姿を夢見た学者であり政治家だった。モアの目にヨーロッパ諸国は理想と程遠く、モア自身も権力を恐れてラテン語でこの本を書いたくらいだ。この頃ゴルフは国王や貴族達によって盛んに行なわれていたようだが、恐らくゴルフの世界もユートピアとは隔絶していたに違いない。モアがゴルフをしたかどうか知らないが、モアがゴルフユートピアを描いていたら国王の逆鱗に触れることもなく、ギロチンにかけられずに済んだかもしれない。

 

あれから500年の歳月が経ったゴルフの世界は男も女も、子供も年寄も、金持も貧乏も、大臣も失業者もゴルフをこころから楽しんでいる。ゴルフをするのに身分も服装も所持金も問われないから、大臣が普段着でゴルフ場に出かけて失業者や年金生活者とゴルフをしながら、最近の社会情勢を取材すればよいではないか。誰も大臣が接待ゴルフをしていると思わないし、フォーカスされる心配もない。ゴルファーはみな紳士だから礼儀もわきまえているし嘘もつかない。大臣が心配することは、自分自身が本当のゴルファーか彼らに観察されていることだ。ルールやスコアをごまかし、エチケットもわきまえないゴルファーなら地位身分に関係なく人間として失格の烙印が押される。トーマスモアが生きていたら「これこそ私が描いたユートピアだ!」と叫んだに違いない。
日本を飛び出した若者は、ゴルフユートピアを見てきただろうか。ゴルフマインドやジェントルマンシップを学んできただろうか。天は若者によって本当に日本のゴルフを変えてくださるだろうか。