セルフプレー
セルフプレーは人間の文化だと思う。論語に「小人閑居して不善をなす」とあり、聖書に「義人はいない一人もいない」とあるように、どうやら人間の本質はイイカゲンらしい。そのイイカゲンな人間に審判を付けずに自己責任でマジメにプレーせよというのがゴルフの本質である。私自身ゴルフを始めて間もなく自分に内在するイイカゲンさを思い知らされた。自宅の裏にあった米軍コースに頼んで早朝練習をさせてもらっていた頃、一人でプレーしていると「アッ、この一打はなかったことにしよう」「コレ、ノーペナでいいよな」「今のは本来の自分じゃない」。次から次へとゴマカシとイイカゲンが連鎖して、ついには自己嫌悪に陥ってしまった。論語や聖書に書いてあったことは訓戒ではなく事実だったのである。
ゴルフがなぜセルフプレー・セルフジャッジを原則とするのか研究するうちに段々とキリスト教プロテスタント思想に基づくからだと分かってきた。自分を含めて誰もが、人はごまかせても神をごまかすことはできない。人間は誰もが全知全能の神の前に一人で立って清廉潔白を証明することはできない。セルフプレー・セルフジャッジは神の審判のもと、自分自身がフェアにプレーすることを前提に成り立っている。それを知ったら誰もが「コワッ!」と思うはずだ。
セルフプレーではティーショットとパット以外、ほとんど誰も見ていないところでプレーする。ボールが多少動いても、多少動かしても自分と神さま以外は誰も分からない。その自分と神さまが協同審判を勤めるルールになっているのがゴルフゲームなのである。公式競技のように自分を監視するマーカーや競技委員がいないセルフプレーでは、スコアをゴマカシてもイイカゲンなルール裁定をしても、同伴競技者はお互いの自己申告スコアを受け入れざるを得ない。
「おかしい」と思っても、ほとんどの人が黙って受け入れるのは、言い争って自分のゴルフを台無しにしたくないからである。ズルイゴルファー、イイカゲンゴルファーは仲間うちで有名だが、本人だけは自覚もなく自分はマジメゴルファーと思っているところがコレマタ実にコワイ。
セルフプレーがまともにできない人は恐らく普段の生活もイイカゲンでゴマカシが多いに違いない。だからそういう人とは余り深く係わらない方がいいし、ビジネスはしない方がいい。あとできっと後悔する。セルフプレーにはそれほど重い意味があるのだから人件費節約とか経営合理化という経営サイドの都合や、サービス低下とかパブリック化という顧客サイドの視点で判断してはならない。ゴルフに対する姿勢はその人の人生に対する姿勢そのものだから、プレー姿勢を見ているのは自分と神さまだけでなく、実は同伴競技者となった仲間が最も厳しく見ていることを決して忘れてはならない。クルマの運転もゴルフのプレーも自己責任によるセルフプレーだから、性格のみならず人間性まで物の見事にムキダシにしてしまうのだ。