2000年、小泉内閣は「聖域なき行政改革」を訴えて民間活力を引き出し経済成長に結び付けようとした。目的は1896年から続く官主導の公益法人が民間事業を圧迫して成長の妨げになっているのを改革するためである。2006年には公益法人改革案を国会で可決し3600の公益法人を解体した。文部省管轄下にあったPGA日本プロゴルフ協会とJGA日本ゴルフ協会は行政改革委員会の事業仕分により2014年PGAは公益社団として、JGAは公益財団として内閣総理大臣の管轄下に置かれることになった。文部省という旗艦・母艦を失って護送船団は既に崩壊したため、業界団体は各自が百戦錬磨の民間企業とスクラッチ勝負をしなければならなくなったのだ。
業界団体はもともと自由競争市場に馴染まない。親方日の丸の下に同業者を結束させ市場を独占して完全売り手市場を形成しようとする政策だからである。しかしITグローバル社会は一般大衆に真相情報を公開し、官主導による業界団体の利権政策が民間企業や消費者の利益を大きく阻害している実態を明らかにしてしまった。「文部省が認めない団体の教育プログラムを使用したり勉強するとプロ資格やアマチュア資格を喪失する」などという独裁的な規制は世界に例を見ない。中国や北朝鮮の常識が世界の笑いものであることを知りながら、日本の常識が世界の笑いものであることには気が付かなかった。JGAハンディキャップも世界の非常識であることを知らず、私たちは本当に極東ガラパゴス島の住人だったことをいま知り始めたばかりだ。
PGA・JGAはじめゴルフ場事業協会・全国練習場連盟などの業界団体は公益事業を営む民間団体として内閣総理大臣の監視の下に経営再建を図らなければならない立場にある。公益事業部門にのみ税制優遇が与えられたものの、全ての利権を失って自由競争市場に放り出されたいま、各団体とも存亡を賭けた戦いを強いられている。「業界の業界による業界のための」団体から「ゴルファーのゴルファーによるゴルファーのための」団体に変わらなければ生き残れない。PGAメンバーも厳しい環境に立たされている。ゴルフもろくに分からない歴代文部大臣の認定証を掲げ、独自のカリキュラムと称する我流レッスンが売り物では、とても自由競争市場で生き残れない。
ITグローバル社会の到来は情報通信革命となってあらゆる業界や職業にイノベーションをもたらしている。小泉内閣が叫んだ「聖域なき行政改革」は情報通信革命のほんの序曲に過ぎなかった。歴史的に見れば今は「大政奉還」がなったばかりで、これから世界を睨んだ「殖産興業時代」が始まろうとしている。140年前に福沢諭吉が叫んだ『学問のすすめ』が今また甦って、歴史に学ぶものこそ賢者として生き残れることを教えている。
(社)日本野球機構がボールの問題で揺れている。野球機構が定めた公式ボールが事務局長の極秘命令で基準以上に飛ぶように造られていたという。命令されてボールを製造したメーカーは「ミズノ」だそうだが、スポーツ団体の元締めは全て文部省であり、その文部省とミズノの関係は古い。戦前戦後を通じ文部省が掲げた国民体位の向上と学校体育の振興に「美津濃」は献身的に協力してきたといわれている。全てのはじまりは昭和15年、世界大戦に突入するための準備として「国家総動員法」を定め、戦争に供する資源をことごとく政府の統制下に収めて管理したことにあった。世界を相手に戦争するには「物資」だけでなく「国民」が最重要資源であるから、文部省管轄のもとにある学校体育を軍事教練化して、青少年を徹底的に鍛え上げて世界最強の兵士を養成した。戦後は国民スポーツの振興に名を変えて今日までその体制が続いている。安倍首相が叫ぶ「アンシャンレジーム(旧体制)の打破」とはこの体制打破のことであり、「構造改革」とは政官業癒着構造の改革のことを指している。「日本相撲協会」「日本柔道連盟」「日本野球機構」ついでに「検定教科書」「靖国神社」も文部省管轄下にある。「日本ゴルフ協会」「日本プロゴルフ協会」も文部省管轄下にあることも忘れてはならない。
ゴルフが文部省の管轄下に入ったのはそれほど古い話ではない。日本プロゴルフ協会が1983年、日本(アマチュア)ゴルフ協会が1987年だから30年ほど前の話である。ともに文部省公益法人「国民体育協会」の傘下にあって、プロ協会はプロ競技開催権と指導資格認定権を、アマチュア協会はアマチュア競技開催権とハンディキャップ認定権という利権を支配している。「それがどうした」といわれると二の句が告げないが、言いたいことは「国民の国民による国民のためのスポーツになるとい~な」ということ。ゴルフルール、ハンディキャップ、ボール他用具は「全米ゴルフ協会」と「英国R&A」が統一基準を定めて管理しているから文部省は手も足も出ないが、野球もゴルフも用具でボールを飛ばすゲームだから、ボールに関する国際基準は厳しい。かつてゴルフボールは米国と英国では大きさが違っていた。日本では英国のスモールボールを使っていたから、米国のラージボールを使うと重くて飛ばないうえ、歯を食いしばって叩くと大きく曲がる「やっかいもの」だった。やがてラージボールに国際基準が統一されゴルフの技術もボールの製造技術も飛躍的に向上したといわれている。今ではボールが飛び過ぎて、ゲーム性においても安全性においても実に困った問題になっている。やがて国際基準が変わるのではないか。
一方米国ではボールの価格は昔から1個2ドルが相場だったから、円安の時代には実に高価な貴重品だった。ニューボール1個の値段は一日のバイト代に匹敵したから、ロストボールをボロボロになるまで使っていたものだが、あるときボールの切り傷にマジックインキで印をつけたところ、43箇所に手傷を負っていたので「斬られの与三郎」と名付けたことがあった。ところが不思議なことに1ドル360円の時代から90円の時代になっても、国内価格はずっと1個800円が続いたのは一体何だったのか。為替相場からいえば当然一個200円でなくてはならないが、安売り量販店に行かないとその値段では買えない。是非ともTPPの議案に乗せて欲しいものだが、ついでにボールだけでなくクラブやプレー代も国際標準になるよう話し合って頂けませんかねぇ。
文部大臣の指導資格認定証はゴルフ界にもある。日本プロゴルフ協会が発行するインストラクター資格には時の文部科学大臣の名前がデカデカと書いてあるから有難い免許皆伝に違いない。しかしゴルフは世界中で行われているスポーツだし、とっくの昔に国際化しているはずだから、今さら日本国文部大臣認定もなさそうだ。リオデジャネイロ・オリンピックから正式種目に採用されるから、いよいよグローバル化といえるが、その前提条件として世界統一基準や統一規則が採用されたことがあげられる。競技をつかさどる規則は米国USGAと英国R&Aによって世界統一されているし、コースの難度査定やプレーヤーの技量評価もUSGA基準によって世界統一されている。最も大切なプレーヤーの養成や育成は独自の創意工夫や研究努力,それをサポートするコーチの能力に委ねられている。欧米諸国は勿論、中国や北朝鮮でもゴルフコーチの国家認定制度や行政保護政策などないが、日本では文部省が競技団体や指導者団体を行政管理下に治め、保護規制によって自由活動を制限している。「文部省公認団体は外国技術ノウハウの導入を禁止する」「文部省の認めない団体に加担協力したものはプロ資格を剥奪する」「文部省の認めない機関の教育を受けたものは、アマチュア資格喪失の原因となる」等々。日本の社会構造は国際化された自由な世界と思われているスポーツ界ですら、実は行政の統制下にあって民間の事業活動が規制されたり制限されている。以前から「構造改革」や「規制緩和」が叫ばれているが、実態や現実を分かっている人は政治家やマスコミも含めて極めて少ない。相撲協会や柔道連盟と同じようにゴルフ団体の構造や規制についても、実態が分かっている人は殆どいない。
TPP交渉参加の意味は、幕末に欧米列強から通商条約の批准を求められたのに良く似ている。日本に住んでいると日本は何でもできる自由な国に思えるが、実は規制や制約が多くあって、新しいことや革新的なことは何も出来ないガラパゴス島であることに気がついていない。「井の中のカワズ、大海を知らず」という諺があるが、日本ガラパゴス島に住む日本人には世界の実態が分からない。「知らぬが仏」という諺もあるが、知らないことによってかえって平和でいられることも多いから知ろうとしないのかもしれない。日本で土日祭日にゴルフをしようと思えば、近郊ならメンバーに頼んで高いビジター料金を払うか、近県なら高い高速道路料金と平日の五割増料金を払わなければならない。どっちが安くつくか考えさせられるが、欧米豪州カナダでは想像もできない実態なのである。土日祭日料金が高いことも、18ホールプレーするのに200ドル300ドルもかかることも、高速道路をたった2,3時間走って何千円もかかることも、娯楽施設利用税が掛かることも、子供料金がないことも、公営ゴルフ場も民営ゴルフ場も同じ料金体系であることも、全てガラパゴス島固有の実態なのである。外国でゴルフをした人や高速道路を走った経験がある人は多いはずだが、なぜこんなにも違うのか疑問に思う人が少ないのも不思議なことだ。ここは日本だからと簡単に割り切ってしまうようだが、日本と外国は違うのが当たり前と考えているのかもしれない。日本と外国では違っていて当たり前なことと、同じである方が当たり前のことを協議する場をTPPとするならば、一刻も早く参加した方が良いに決まっている。誰にとって良いかといえば国民や大衆にとってであり、ゴルフに関するならば一般大衆ゴルファーにとってである。決して特定業者、特定団体、特定議員、特定役人にとってではない。